日本軍機関銃用弾薬“素箱”の再現

4年ぶりの再チャレンジ。入手した実物木箱をもとに改善しました。

 4年前に御殿場で開催された「この戦場は南方」イベントに向けて日本軍の九二式重機関銃用弾薬木箱を製作しました。当時の製作レポートは下記で公開しています。

南方戦線向け九二式重機関銃用の木製弾薬箱
九二式重機7.7ミリ弾 補給用弾薬箱の作り方

 当時はインターネット上の現物写真をもとに、収容する保弾板のサイズからおおよその内寸と外寸を割り出して製作しました。その後、実物の木箱(三年式機関銃用)を入手することができ、実測したところ、外寸は数ミリの違いで、持ち手の麻縄を通す四本の支持架の角度が5度ほどずれていただけでした。

 左側が実物、右側が今回製作した弾薬木箱です。実物木箱を入手したのは2019年です。残念ながら蓋はありませんが、原型を保っており、マーキング(標識)も残っています。

 4年前に再現した木箱はおおむねサイズが近いものの、後述するように実物を入手してはじめてわかったこともあります。再製作のリクエストもいただいていたので、なんとかリベンジしたいと思い、試行錯誤をつづけていたのですが、このたび、ようやく再現をすることができました。

 今回の再製作で3種類の木箱の再現が実現しました。左から三年式機関銃、九二式重機関銃、九九式軽機関銃用です(※1)。三年式と九九式は今回新たに製作したもので、九二式は4年前に製作したものです。当時、試作品として購入いただいた軍事法規研究会@GunHouKenさんにお願いをして、新規製作の三年式と交換で返却いただき、改修をおこなったものです。

(※1)九九式軽機関銃用は海軍陸戦隊向けの可能性があります。今後、仔細判明しだいご報告したいと思います。

 ところで、今回の再製作にあたり、弾薬木箱について調べたところ、この様式の木箱は、兵器廠から戦地に送られる補給用の「素箱」と呼ぶべきものであることがわかりました。今回のレポートでも素箱と表記したいと思います。

 三年式と九二式は保弾板を、九九式は実包15発の紙函を収容します。いずれも普通実包用で、収容弾数は三年式と九二式が600発(30発装弾の保弾板20個)、九九式は840発(15発の紙函56個)です。マーキング(標識)はそれぞれ微妙に字体が違うので、今回は三年式と九九式それぞれ新しくデータを起こしています。

 弾薬の製造及び検査の時期は未記載ですが、三年式は1939~1940年、九二式は1940年、九九式は1942年に製造された現物写真を参考にしています。いずれも東京の陸軍造兵廠(1940年以降は陸軍兵器廠)での製造ですが、生産時期の違いにより製造所名も三年式と九二式が「銃砲」、九九式は「東一」に変更しています。この標識の違いについての根拠資料は未見ですが、1940年の組織改正が契機になっているのではないかと思います。

 素箱の構造は、生産時期によると思われるじゃっかんの違いを反映させています。

 まず、側面の持ち手の麻縄を通す支持架は、生産時期によって左右が上側で対称となっている形式(写真下)と、左右上下互い違いになっている形式(写真上)があります。いまのところ、なぜ変更されたかはわかりませんが、今回は三年式を左右対称型、九二式及び九九式を左右互い違いとしました。

 また、底板は三年式と九二式は一枚板としましたが、戦争の進展で幅広材が不足したのでしょう、1942年製造の九九式軽機関銃用で確認できる二枚の板を凹凸の継手にしたものを再現してみました。

 素箱の展開図です。支持架が左右互い違いのタイプです。今回は前回同様に板厚21ミリの杉無垢板で製作しました。実物は板厚が19~20ミリですが、内寸はあわせていますので、この図面で製作するとほぼ実物にちかい外観のものが製作できます。4本の支持架は幅40ミリ・傾斜角度15度としましたが、実物はかなり幅があります。麻縄は左右それぞれ約1.2メートルです。

 4年前の試作からの改善点はサイズを実物に合わせた以外に2点あります。1点目は、防湿対策の黒ワニス塗布を再現したことです。これは、接合面と無垢板に特有の節や割れの部分に黒ワニスを塗ってシーリングするものです。アクリル塗料で再現しています。

 2点目は、釘のほかに、底板で4本、蓋で4~6本がつかわれているマイナス木ネジを再現したことです。マイナスの木ネジは現在は生産してないので、ビンテージショップから通販で取り寄せました。

 肝心の仕上がり(工作精度)については、前回とそう大差はない感じです。この素箱の特徴でもある側板の組み手継ぎ(三枚組手)は、無垢板の反りによる誤差もあり、自分にはまだ技倆不足の感が否めません。

 最後に、戦地における素箱の使用実態についてまとめてみたいと思います。

 1940年の規定(弾薬取扱細則)に定めがあるように、陸軍において弾薬を輸送するための収容箱は三種類が定められていました。部隊が装備する弾薬箱、輸送につかう運搬箱、兵器廠からの補給用の素箱です。

 米軍の教範に転載された重機分隊の写真です。分隊の兵士が背負っているのは、部隊が装備する弾薬箱です。今回再現した素箱は補給用で、本来は前線において、このような部隊が装備する弾薬箱に弾薬を詰め替えて携行します。しかし、1940年に陸軍省が作成した「昭和十六年度動員計画令細則」では、弾薬箱について「補給用弾薬箱又ハ素箱ヲ以テ代用スルコトヲ得」と定めています(※2)。これをうけて、実際に南方戦線では、本来は補給用の素箱が弾薬箱と併用されていたようです。

(※2)ここにいう「補給用弾薬箱」とは、1940年以降に砲弾や手榴弾用に製造された防湿対策が施された木箱をいいます。形状は従来の素箱を踏襲しつつも防湿紙でできた内函を有するもので、中国戦線での戦訓をもとに採用された制式兵器です。この補給用弾薬箱については、別に稿を改めてご紹介したいと思います。

 1944年の南方戦域における部隊が作成した文書です。このように各兵器毎に制式弾薬箱と素箱が併記されています。

 この写真は、オーストラリア国立戦争記念館が所有するフィルムにあるものです。1945年にボルネオ島で撮影されたもので、豪軍兵士が滷獲した日本軍の重機関銃を検査しています。手前の兵士が素箱から保弾板を取り出しています。保弾板を収容する重機関銃用の素箱は、このように銃側で弾薬箱としてつかうことが可能でした。当時の米軍が撮影した戦場写真でも銃側に素箱が散乱している例がみられます。今回製作した素箱は、南方戦線で広く実質上の弾薬箱として使用された実績があるといえます。なお、重機関銃用の弾薬定数(一基数)は1200発ですので、素箱のみでの再現であれば、一分隊(一丁)に素箱2が適当でしょう。

 ところで、さきほどの米軍が転載した重機分隊の写真にあるように、正規の弾薬箱は兵士が背負うようにつくられています。今回の再現に際して、素箱の背負いを試みましたが、両端の麻縄に腕を通して肩から提げるには、じゃっかん長さが足りないようです(筆者は身長170センチ、中肉中背)。当時の平均身長は160センチ前後です。平均身長の差を考慮しても、素箱を背負うには、麻縄の長さがあと10~20センチは必要ではないかと思います。戦地において背負うに足る長さの麻縄に交換された事例があったかはわかりません。

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