Mk. II A1 手榴弾の再現

国内で入手できるMk2手榴弾で、WW2モデルを正確に再現しているものは、自分の知る限り存在しない。精巧な海外製も物足りないので、つくってみた。

 最初に、自分が今まで入手したなかで最も出来のよいレプリカをご紹介します。先日のMk2手榴弾についての記事でご紹介した海外製のレプリカです。

 左がレプリカ、右が実物(プラクティス)です。レプリカの弾体はプラスチック、信管はアルミ製です。レバーとリングはスチール。バネとストライカーも再現されており、実物と同じギミックです。

 とても良い出来なのですが、残念なことに、重量がありません。89グラムしかないのです。実物のMk .IIA1手榴弾は炸薬を含めて約567グラムです。素材が異なるので仕方がないことですが、この差は大きいです。

 リエナクトメントをバーチャルリアリティ活動であると定義すると、その完成度は、参加者にどこまで深い没入感を与えられるかがすべてです。人間の認知の大部分は視覚と聴覚が占めますが、逆に触感系の感覚は敏感です。見た目が似ていても重量や質感が異なれば没入感が得られません。

 そこで、リエナクトメントにふさわしいMk .IIA1手榴弾の再現を目指して、製作に着手しました。

 左が原型とした実物(プラクティス)、右が製作したレプリカです。弾体と信管は、ともに実物(プラクティス)から型取りして製作しています。弾体は樹脂(レジン)、信管は低融点合金(ホワイトメタル)の鋳造です。信管には、ストライカーとバネを内部に組み込むことで、リングを抜くとレバーが跳んでいく、実物同様のギミックが再現できます。

 レバーはプレス加工が困難なため、海外からレプリカを輸入しました。セーフティリング、ストライカー、バネは戦後と同型なので、放出品のものを取り付けています。このレバーにはM10A3のスタンプを再現しています。弾体をODに着色すれば、1943年から製造がされ、第二次世界大戦でもっともオーソドックスなMk2手榴弾(Mk. IIA1)が再現できます。

 残念ながら、このレプリカは、いまだパーフェクトではありません。課題は二つあります。ひとつは、弾体の重量が軽いこと、ふたつめに、信管の強度が足りないことです。

 当初、弾体はホワイトメタルの鋳造でチャレンジしました。しかし、内部の空洞(中子)をつくるのが難しく、実物よりも重くなってしまうために、レジンに変更しています。レジンは、鉄粉を混入するコールドキャスト技法にもトライしましたが、上手くいかないため、通常のレジンキャストとせざるを得ませんでした。

 レジンは比重が小さいため、内部を埋めても実物の重量には足りません。そこで、比重が鉄よりも大きい鉛をレジンに混入することで重量を増やしています。しかし、それでも完成重量は、信管部とあわせて約350グラムです。冒頭に紹介した海外製レプリカと比較すれば重さは感じられるものの、まだ実物の重量である567グラムには足りません。重量をどのように増やすかが課題です。

 ホワイトメタルで鋳造した信管です。鋳型から抜いた直後の状態です。ここから、ひとつひとつ加工の処理をして、ようやく出来あがります。

 質感は非常によく、バネとストライカーを組み込めば、実物と同様の機構となります。法令に抵触しないよう、起爆筒の部分は密閉する形で製作しています。

 上が製作したレプリカ、下が実物です。レプリカにダミーの起爆筒をつけた様子です。実物には起爆筒の残骸がついています。実物は、実爆による使用や不活性化処理で起爆筒が失われていますから、コレクターが目にする機会はほとんどありません。このようにダミーの起爆筒を再現すると、手榴弾が作動する仕組みを、より明確に理解できると思います。

 レプリカ信管の課題は強度です。圧力をかけて密度を高めるダイキャストの製法とは異なり、DIYの流し込みによる製法のため、密度が低く、強度が足りません。固いものの上に落としたり、力を入れてひねったりすると、割れたり欠けたりします。当然、野外で投げることもできません。

 強度不足は、実物同様の構造とギミックの再現にこだわらなければ解決できます。課題というよりも、DIYの限界といえるかもしれません。

 ふたつの課題の解決は、なかなか困難な気がします。仮に製法を変更したとしても、根本的な解決は難しいでしょう。今回製作したMk .IIA1手榴弾のレプリカは、リエナクトメントでは装着、コレクションとしては置物に限っての利用になりそうです。

37mm対空砲M1 照準機用スコープ

照準機に2本のスコープを取り付けて使用します。戦後は自衛隊に供与され、ハーフトラックタイプの自走砲M15でもつかわれました。

本記事は、過去に公開した記事に加筆修正したものです。修正内容が多いため、新たに掲載しなおします。

 このスコープは、37mm砲と50口径機関銃2丁を組み合わせた対空砲M1の照準機に使用します。照準機は、初期のM2からはじまり、戦争中にM5、M6へと改良されています。

 こちらが初期の照準機M2です。スコープの型式はM7。M2照準機では、方位角(Azimuth)と仰角(Elevation)にそれぞれ同じスコープを1本ずつ使用します。

 M7スコープのレティクルはシンプルで十字のみです。

 新型の照準機M5、M6では、スコープM64が仰角側に採用されています。左が従来のM7、右が目盛りが追加されたM64です。

 M7とM64は、筐体のみ同じでレティクルが異なるだけです。M7のレンズを目盛り付きのものに交換してM64に更新したものも存在したのではないかと考えます。

 スコープの金属製収容箱です。2本ともレティクルに目盛りがないM7です。初期のM2照準機用です。収容箱は2本セットで入るようになっています。取り付け金具と思われる金属製のプレート1本が付属しています。

 照準機のスコープは破損防止のため、展開時以外はこのような収容箱に保管携行されました。各国軍ともに、砲が敵に奪取される恐れがある場合は最初に撤去または破壊するのはスコープです。

 スコープにはレザーキャップとラバーキャップが付属しています。レザーキャップは保管時の破損防止です。ラバーキャップはレンズに光が入って照準に支障をきたさないようにする遮光用と思われます。M7スコープは接眼部から最大で約11センチ離れたところから照準できるようになっています。

 37mm対空砲M1は1939年に採用され、米陸軍の対空自動砲大隊に配備されて第二次世界大戦を迎えます。一方で、米陸軍はその優秀さゆえに世界各国で採用された40mmボフォース機関砲を導入し、M1と交代させます。M1の威力不足が原因と言われますが、初速や射程など、37mmと40mmの性能差はスペック上は近似していますから、実際の運用面、例えば次弾の装填や照準と算定の機構がより優れているなどの理由があったものと思われます。

 牽引砲としてより良いボフォース機関砲が導入されると、37mm砲M1は装甲車の車載砲に転換されます。ハーフトラックの荷台に37mm砲と2丁の50口径機関銃を搭載したM15は、機械化部隊に随伴可能な自走砲として配備されました。「Multiple Gun Motor Carriage」という名称が示すように、対空防衛だけでなく、対地攻撃も対応するものです。M15は戦後日本にも供与され、高射特科の主力として長く装備されていたそうです。

こちらでご紹介した照準機用のスコープと金属製収容箱はヤフオクに出品しています。スコープはM7スコープ2本、レザーカバー、取り付け金具、収納箱のセットです。スコープは錆・曇りもなく、よいコンディションです。金属製収容箱のみも出品しています。ご関心のある下記のバナーからご覧ください。

ヤフオク!マイオークション

「強制収容所」の英語表現が変わりつつあるのだろうか?

アメリカ人にとって“Concentration camps”が国内に存在したことはショックだったでしょう。

 2018年に息子と一緒にカリフォルニアのジョン・ミューア・トレイル(JMT)にチャレンジしたとき、第二次世界大戦で日系アメリカ人が強制収容されたマンザナー(Manzanar)を訪問しました。

 JMTのトレッキングルートは、ヨセミテから米本土第一の高峰であるホイットニー山(Mt. Whitney)まで、おそよ211マイル(約340km)の距離があります。このロングトレイルを、およそ4週間かけて歩くわけですが、ゴールのホイットニー山からほど遠くない場所にマンザナーがあります。

 マンザナーへの訪問は当初から予定していたわけではありません。JMTはロングトレイルなので、いちおうの行程は立てていますが、息子は当時はまだ小学5年生でわずか10歳。彼の健康状態によっては途中でリタイアもあり得ます。事前に予定をしっかり組めるわけではありません。

 さいわいにも、大きな怪我も身体の不調もなくトレッキングを続けることができました。終盤にさしかかり、ホイットニー山から下山後に宿泊する町を地図で確認していたとき、マンザナーの存在に気付きました。マンザナーは、ホイットニー山の下山口から一番近い町であるローンパインから北へわずか約10キロの地点にあります。そこで、ホイットニー山を下山した後はローンパインに宿泊し、マンザナーを訪問することに決めたわけです。

 朝3時に麓を出発して午前中に標高4418mのホイットニー山を登頂。富士山も未経験だった息子にとっては高度障害の発症がリスクでしたが、元気に登頂することができました。そのまま下山口まで、その日はたしか10時間、およそ30km近い行程を歩いたと記憶しています。トレッキングの初日は6kmしか歩けなかったのが、食料が減って荷物が軽くなっていたとはいえ、最高峰に登頂後、さらに歩いて、初日の5倍近い距離を歩いたわけですから、人間の身体は不思議なものです。

 下山口でヒッチハイクをして、同乗させてもらった男性にオススメの宿を聞きました。ローンパインでいちばん有名だというモーテルに連れていってもらいました。

 1950年代にオープンしたDow Villa Motelです。西部劇のロケでジョン・ウェインなどの名だたるハリウッドの俳優たちが宿泊に利用したそうです。館内にはロケの写真や俳優たちゆかりの品が展示されています。西海岸の物価からすると田舎町ゆえ宿泊費はリーズナブルですが、雰囲気のよい宿です。

 幸いにも空き室があり、その日はひさしぶりに町内のレストランでちゃんとした食事と、ホテルのベッドでゆっくりと睡眠をとることができました。翌日にマンザナーを訪問しました。

 マンザナーは、1942年から米本土に建設された10ヶ所の日系アメリカ人収容所のうち、最初に建設された収容所です。西海岸に住む日系アメリカ人を中心に、収容者数はおよそ1万人に上りました。

 戦争が終結した1945年に閉鎖された後、30年近く放置されていましたが、1972年にカリフォルニア州が史跡と位置づけてから整備がおこなわれ、現在は国立史跡となっています。

 当時のマンザナー収容所は、814エーカー(約3.3平方キロメートル)、日本式に表現すると、“東京ドーム70個分”という広大な敷地で、現在もほぼ当時にちかい広さで史跡の保全がされていると思います。敷地内の一部には、ビジターセンターを兼ねた博物館と、当時の建物や歩哨塔、鉄条網などが再現されています。建物(バラック)は基礎部分にあわせて、忠実に再現しているようです。

 敷地内に再現された数棟のバラックでは、当時の収容生活が再現されており、内部を見学することができます。

 共同食堂を再現したバラックです。当時、収容者たちが正月についた餅の臼と杵が展示されていました。

 マンザナーは、カリフォルニア州とネバダ州の境に近い、乾燥地帯に位置します。もともと開拓地で、小さな集落がありましたが、1920年代後半に水利建設の余波で集落が放棄されてからは無人の地だったため、収容所の立地として好都合だったようです。気候はかなり厳しく、夏は酷暑、冬は冷涼で、強風による砂塵が吹き荒れるという環境です。当時の収容経験者は、一様に自然の厳しさが身に染みたようです。再現されたバラックの内装は粗末で、寒気を凌ぐには厳しかったことがうかがえます。

 ところで、訪問した当時は、“Concentration camp”(強制収容所)という呼び方だったと思います。これは史跡としての正式な名称ではなく、通称として参観者や現地の人たちはこのように呼んでいました。ところが、今回、記事を書くうえで調べたところ、日系アメリカ人の収容所については、“Internment camp”(抑留施設?)という呼び方になっているようです。これはどういうことなのでしょうか?

 ブリタニカの用語定義では、“Concentration camp”は“Internment camp”と同義としており、民族差別や政治意図で不法に無実の人々を強制的に収容する施設という解釈です。日本語の強制収容所の定義と同様といってよいと思います。一方で、Wikipedia(英語版)は、“Concentration camp”を“Internment”にリダイレクト処理しています。これは、“Concentration camp”にはナチス時代の強制収容所が含まれるが、処刑設備を整えた“Extermination camp”(絶滅収容所)とは厳密に区別すべきという議論を踏まえてのことのようです。ようは、従来の呼称である“Concentration camp”は広汎に過ぎて正確な史実を伝えるのに不適切だから、強制収容所をいう場合は“Internment”の用語をつかうべき、という主張のようです。

 ただ、世間の認識としては、ナチス時代の絶滅収容所も含めて、いまだに“Concentration camp”という表現が一般的だと思います。実際に、筆者が当時、現地で耳にした日系アメリカ人収容所に対する“Concentration camp”という表現は、ナチスの強制収容所と同等にならぶ罪悪であり悲劇である、というニュアンスでした。だからこそ、マンザナーを訪問していた参観者や現地の人たちは、一様に、自国本土に“Concentration camp”が存在した事実をショックなことと受けとめていたわけです。それが史実として正確か否かは別として、それが“Concentration camp”という言葉が持つ重さなわけです。

 筆者は英語が得意ではないので、正確な語彙の意味するところとその区別はわかりません。あくまでも憶測にすぎませんが、“Concentration camp”と“Internment camp”は、語義やニュアンスとして区別されつつあるように思います。それは、昨今、急速にクローズアップされている中国におけるウイグル人収容施設といった世情が参考になりそうです。

 というのも、欧米のメディアでは、中国政府が呼ぶ“Re-Education Camp”(再教育施設、かつての労働改造所と同じ)を主として“Internment camp“と表現しています。しかし、民族浄化を狙っているという主旨の記事では“Concentration camp”という表現をつかっている例があります。“Concentration camp”という表現は、単なる人権侵害を超えて、民族浄化を目的とした深刻な人道危機を含意するものという認識になりつつあるのかもしれません。

 史実は正確な伝承が求められますが、一方で多くの場合は、世間に流布される過程で、いろいろな部分が捨象されます。史実は常に玉虫色で、伝えにくいからです。いちど定着した名称から受けるイメージは、多かれ少なかれ、本来意図した含意や史実とは離れてしまうものです。強制収容所の用語をめぐる動きは、そのことをあらわしていると思います。

マンザナー収容所の様子を写真に残したアンセル・アダムス(Ansel Adams, 1902-1984)のモノクロ写真を、AIによる深層学習の技術をつかい、彩色で再現した写真集『強制収容所の日系アメリカ人』です。Amazonの電子書籍版(Kindle)でリリースされています。

塹壕エキスポってのがあるらしいよ。

「塹壕エキスポ」とは、2018年のMVGからはじまったイベント内イベントです。穴掘って、入って、翌日にはまた埋め戻すだけですが、すごく楽しいです。

 塹壕エキスポは、@A_S_Pirogovさんの発案ではじまったイベントのはずです。毎年初夏に群馬県軽井沢市で開催されているMVGのイベント内イベントという位置づけです。自分は息子と一緒に2018年5月に開催された初回にBCoのメンバーとして参加しました。このときは初の試みということで、軍曹(@Msg. Merwin J. Toome)の監修の下、先任(@xxkfirxx)とともに立看板と配布用のチラシを(かなり気合いを入れて)事前準備してPRに励みました。

 開催期間中に本部受付前に掲示させてもらった案内板です。目立つようにA1サイズの大型パネルで作成しました。地図に場所が書いていませんが、これは直前まで穴を掘る場所と参加グループの調整のためです。パネルはこの状態で業者に発注し、現地でシールを貼ったり、手書きしたと思います。パネルそのものの出来はよかったと思います。

 こちらはチラシです。イベント期間中に本部の受付で来場者へ配っていただきました。表面は、日系米兵の回想を引用して、歩兵にとっての塹壕の位置づけをご紹介しています。すごく辛そうな回想ですが、イベントでの自分たちは、もちろんそんなことはありません。裏面は、開催期間中に構築予定の各国掩体の説明です。足を運んでもらえるようにシークレット(右上の「Confidential」)も入れています。これなんだったかな?後述の一人用うつ伏せ掩体だったかと思います。

 このチラシは、A4サイズの両面カラー印刷で500部を作成しました。先任には「刷りすぎ!」と呆れられましたが、余った分は翌春に開催されたVショーのBCo展示ブースで配布して、2019年の開催回のPRにつかいました。

2019年3月に東京浅草で開催されたVショーでの展示は、こちらのレポート「VショーWWII米軍工兵・衛生器材展示に参加してきました。」をご覧ください。

 塹壕エキスポの展示場所です。MVG会場のリビング・ヒストリー・エリア西側、車両走行路を挟んだ森の前縁にあたる台上に、横並びで各国掩体を構築しました。入口には各国掩体を紹介する立て看板を設置しました。

 こちらは米軍エリアに設置した案内板です。二人組の小銃掩体(左イラスト)、一人用のうつ伏せ掩体(左上)、シェルター・ハーフ・テント(左下)の説明です。当日はこの通りに展開しました。

 初日の構築中の様子です。二人用の小銃掩体です。かなり掘り進んでいるように見えますが、まだ深さは半分程度です。掘るのは俗称「Tボーン」と呼ばれる個人装具の小円匙です。浅間山の麓で火山灰の土質のため、かなり掘りやすいです。それでもかなりの岩石もあり、午前中から昼食をはさんで午後まで、完成までにはけっこうな時間がかかりました。トラウザーズのポケットからスマホが見えているのはいかんですね。

 一人用のうつ伏せ掩体を構築中に、計測用の麻紐で深さを測っているところです。麻紐はあらかじめ教範に規定のサイズになるようにフィートでつくってあります。

 掩体の構造とサイズは教範に規定があります。浅かったり、大きすぎたりすると、攻撃を受けたときに敵弾や破片が飛び込んで負傷する恐れがあります。また、保温や雨滴を防ぐ耐候性にも影響があります。これではせっかく構築した掩体としての価値を損なうことになりますから、規定通りに構築する必要があります。実際に規定通りに構築することで、なぜそのように定められているかが理解できます。

 完成した二人用の小銃掩体です。まわりに盛り土をして敵弾避けとしたうえで、あらかじめ除けておいた草の生えた表層を、敵方を中心にして配置し、偽装します。なお、この掩体は見学者に配慮して、側面と底に麻土嚢をつめ、足場と崩壊防止の処置をしています。

 イベント開催中の2日間は基本的に掩体で過ごします。自分は息子と参加したので、夜はスモール・ウォール・テントで宿営しましたが、BCoのメンバーは有志で夜を掩体で過ごしています。掩体の上にはシェルター・ハーフ・テントを張り、底にブランケットを敷いて身体を横にします。食事は第一線を想定してグループレーションの10in1。4食ともに温食はありません。

 掩体での様子を撮影した写真を時代がけしてみました。左はバディのPvt.クライネさんです。翌年の2019年4月にイタリア戦線を再現した演習でもバディさせてもらいました。

2019年4月にかけて静岡県富士周辺で開催された演習時の様子は、こちらの回想風レポート「イタリアンフロントー1944年6月」をご覧ください。

 二日目の午後は、ミリタリーアーツさんのご厚意で、WW2米軍の3/4トラックであるWC-52をお借りして場内を一周しました。編成上、3/4トントラックは大隊本部に割り当てがあります。使役として本部に出頭する分隊の風景でしょうか。 

 最終日、撤収のときに主催のサムズミリタリア社長が来られて、ぜひ来年もやって欲しいとおっしゃっていただきました。参加者にも好評で、2019年6月のMVGでは、第2回目が開催されています。

 2019年に開催された第2回目のチラシです。自分はスケジュールが合わずに参加できませんでしたが、前年に引き続いてパネルとチラシを作成しました。2019年は機関銃の掩体が中心で、時代も第一次世界大戦から1970年代までと幅広くなりました。

 塹壕エキスポは、2020年のMVGでも実施の方向で検討されていたと思いますが、残念ながら新型コロナウィルス蔓延の影響によってMVGが開催中止となり、塹壕エキスポも開催できませんでした。2021年にMVGが再開できれば、塹壕エキスポも再開できると思います。ご関心のある方は軽井沢まで足を運んでみてください。

 本稿では、2018年に開催された第1回目の塹壕エキスポについて、筆者が参加したグループのBCoのみを紹介しました。もちろん、各国の掩体も素晴らしい光景でした。また、2019年のイベントには参加できませんでしたので、本稿では最新の情報をご紹介できませんでした。これらについては、先任がブログ「What Price Glory」で詳しくレポートしています。下記に記事へのリンクをつくりましたので、ご覧になってください。

MVG2019 塹壕Expoレポート 【1】 【2】 【3】
MVG2018「さんごーExpo’18」【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】

https://kfir.militaryblog.jp/

11月3日(祝・火)に、塹壕エキスポ発案者の@A_S_Pirogovさんが主催するイベント「Go to Trench キャンペーン」が大阪で開催されます。塹壕や糧食の再現が予定されています。海洋堂さんからドイツ軍の対空砲20mm Flak38も展示されるそうです。塹壕エキスポは来年のMVGまでお預けですので、すぐに楽しみたい方は参加されてみてはいかがでしょうか?イベントの詳細と参加受付は、こちらの→TwiPla「Go to Trench キャンペーン貸切」をご覧ください。

いろいろと奥が深い。Mk. II手榴弾。#3(まとめ)

これまで2回に記事をわけて、Mk2手榴弾の変遷についてみてきました。最後に、Mk2手榴弾をモデル別に一覧としてまとめるとともに、もっともオーソドックスなモデルをご紹介します。

 各種教範等の資料にもとづいて作成したリストです。1940年~1945年に製造された7種類のモデルを対象に、仕様と外観の特徴を掲載しています。製造年は推測になります。

製造年名称炸薬信管弾体高弾体径外観備考
1940-1942Grenade, hand, fragmentation, Mk. II無煙火薬 0.74oz (21g)M1085mm52mm弾体黄色塗装、ガスケットあり、底部プラグ穴あり。
1940-1942Grenade, hand, fragmentation, HE, Mk. IITNT M585mm52mm弾体黄色塗装、ガスケットあり、底部プラグ穴あり。信管と弾体は分離梱包。1940年時点で限定標準。1942年時点で在庫なし。
1942-1943Grenade, hand, fragmentation, Mk. II無煙火薬 0.74oz (21g)M10A1/M10A285mm52mm弾体黄色塗装→ODを上塗り、ガスケットなし。
1943-1944Grenade, hand, fragmentation, Mk. IIA1無煙火薬 0.74oz (21g)M10A385mm52mm弾体OD塗装、ガスケットなし。1944年に限定標準。
1944-1945Grenade, hand, fragmentation, Mk. IITNT 1.90oz (54g)M6A4C85mm52mm弾体OD塗装、ガスケットあり。T2E1信管の代用として余剰M6信管を利用。
1944-1945Grenade, hand, fragmentation, Mk. IITNT 1.90oz (54g)T2E185mm52mm弾体OD塗装、ガスケットあり。レバーフック上向き。余剰旧型弾体を使用。
1945-Grenade, hand, fragmentation, Mk. IITNT 1.75oz (50g)M20490mm57mm弾体OD塗装、ガスケットあり(2枚)。レバーフック上向き。余剰新型弾体が払底次第、新型弾体に更新。

 名称は、1943年~1944年に製造されたM10A3信管を装着するモデルのみ型式が「A1」となります。それ以外はすべて「Mk. II」(Mk2)です。初期のTNTタイプは無煙火薬タイプと区別するため、高性能爆薬を示す「HE」が名称につけられていましたが、1944年以降は戦後の廃止にいたるまで「Grenade, hand, fragmentation, Mk. II 」です。

 1942年7月に発行された弾薬技術教範です。Mk2手榴弾は、弾体が黄色で塗色されていることを示しています。もともと米軍では、炸薬が充填された実弾を黄色の塗色としていました。これは手榴弾以外の砲弾や地雷などもすべて同じです。しかし、戦争の本格化にともない、弾体の塗色をODに変更しています。偽装の必要性からとおもわれます。

 兵器弾薬中隊野戦教範(FM 9-20)には、1943年10月に塗色変更を指示する補遺C1が出されています。この頃には、すでに手榴弾を含む弾薬類は、工場出荷時の段階でOD塗色が実施されていたと思われます。また、在庫品を塗装しなおして前線に送ったり、教範にもとづいて前線で塗装する例もありました。工場出荷の場合は、あらかじめODで塗装したうえで、ネックに炸薬入りの実弾を示す黄色の帯を入れました。

 第二次世界大戦でオーソドックスなMk2手榴弾の再現です。1942年~1945年に米軍兵士が手にしたモデルになります。左が戦前からあるMk .II(無煙火薬、M10信管)、中央が1942年から製造されたMk .II(無煙火薬、M10A1/A2信管)もしくは1943年から製造されたMk .IIA1(無煙火薬、M10A3信管)、右が1944年以降に製造されたMk .II(TNT、M6A4C信管)です。

 塗色は、左は弾体が黄色でレバーは未塗装、中央は弾体がODでレバーは未塗装かODです。この中央のモデルは、いったん黄色の弾体に上からODを上塗りして、塗装が剥げた部分から黄色の地肌がみえるようにしてもいいかもしれません。また、戦地での塗装を再現するならば、ネック部の黄色のバンドを残さず、信管を含めてすべてODに塗装するのもよいと思います。右のモデルは弾体がODでレバーもODで、工場出荷時からこの塗色になります。写真では、光の加減で中央と右のモデルの弾体のOD色に違いがありますが、本来は両者ともに変わりません。

 左と右のモデルは、ともに信管と弾体の間に封密用のガスケットがつきます。中央のモデルにはガスケットはつきません。

 第二次世界大戦での再現であれば、1942年までは左のモデル、1943年以降は中央のモデル、1945年は中央か右のモデルがよいでしょう。

 海外製のレプリカMk2手榴弾のレバー部分に、M10A3信管のスタンプを再現してみました。Mk.IIA1手榴弾になります。1943年から製造がはじまり、おそらく、第二次世界大戦の戦場でもっともオーソドックスなモデルの再現です。

 このレプリカMk2手榴弾は、外観としてはパーフェクトですが、弾体がプラスチック製なので重量が軽い点が唯一残念な点です。そこで、実物に近い重量と質感を再現するため、製作にトライしました。そのことは、また改めてご紹介します。