「強制収容所」の英語表現が変わりつつあるのだろうか?

アメリカ人にとって“Concentration camps”が国内に存在したことはショックだったでしょう。

 2018年に息子と一緒にカリフォルニアのジョン・ミューア・トレイル(JMT)にチャレンジしたとき、第二次世界大戦で日系アメリカ人が強制収容されたマンザナー(Manzanar)を訪問しました。

 JMTのトレッキングルートは、ヨセミテから米本土第一の高峰であるホイットニー山(Mt. Whitney)まで、おそよ211マイル(約340km)の距離があります。このロングトレイルを、およそ4週間かけて歩くわけですが、ゴールのホイットニー山からほど遠くない場所にマンザナーがあります。

 マンザナーへの訪問は当初から予定していたわけではありません。JMTはロングトレイルなので、いちおうの行程は立てていますが、息子は当時はまだ小学5年生でわずか10歳。彼の健康状態によっては途中でリタイアもあり得ます。事前に予定をしっかり組めるわけではありません。

 さいわいにも、大きな怪我も身体の不調もなくトレッキングを続けることができました。終盤にさしかかり、ホイットニー山から下山後に宿泊する町を地図で確認していたとき、マンザナーの存在に気付きました。マンザナーは、ホイットニー山の下山口から一番近い町であるローンパインから北へわずか約10キロの地点にあります。そこで、ホイットニー山を下山した後はローンパインに宿泊し、マンザナーを訪問することに決めたわけです。

 朝3時に麓を出発して午前中に標高4418mのホイットニー山を登頂。富士山も未経験だった息子にとっては高度障害の発症がリスクでしたが、元気に登頂することができました。そのまま下山口まで、その日はたしか10時間、およそ30km近い行程を歩いたと記憶しています。トレッキングの初日は6kmしか歩けなかったのが、食料が減って荷物が軽くなっていたとはいえ、最高峰に登頂後、さらに歩いて、初日の5倍近い距離を歩いたわけですから、人間の身体は不思議なものです。

 下山口でヒッチハイクをして、同乗させてもらった男性にオススメの宿を聞きました。ローンパインでいちばん有名だというモーテルに連れていってもらいました。

 1950年代にオープンしたDow Villa Motelです。西部劇のロケでジョン・ウェインなどの名だたるハリウッドの俳優たちが宿泊に利用したそうです。館内にはロケの写真や俳優たちゆかりの品が展示されています。西海岸の物価からすると田舎町ゆえ宿泊費はリーズナブルですが、雰囲気のよい宿です。

 幸いにも空き室があり、その日はひさしぶりに町内のレストランでちゃんとした食事と、ホテルのベッドでゆっくりと睡眠をとることができました。翌日にマンザナーを訪問しました。

 マンザナーは、1942年から米本土に建設された10ヶ所の日系アメリカ人収容所のうち、最初に建設された収容所です。西海岸に住む日系アメリカ人を中心に、収容者数はおよそ1万人に上りました。

 戦争が終結した1945年に閉鎖された後、30年近く放置されていましたが、1972年にカリフォルニア州が史跡と位置づけてから整備がおこなわれ、現在は国立史跡となっています。

 当時のマンザナー収容所は、814エーカー(約3.3平方キロメートル)、日本式に表現すると、“東京ドーム70個分”という広大な敷地で、現在もほぼ当時にちかい広さで史跡の保全がされていると思います。敷地内の一部には、ビジターセンターを兼ねた博物館と、当時の建物や歩哨塔、鉄条網などが再現されています。建物(バラック)は基礎部分にあわせて、忠実に再現しているようです。

 敷地内に再現された数棟のバラックでは、当時の収容生活が再現されており、内部を見学することができます。

 共同食堂を再現したバラックです。当時、収容者たちが正月についた餅の臼と杵が展示されていました。

 マンザナーは、カリフォルニア州とネバダ州の境に近い、乾燥地帯に位置します。もともと開拓地で、小さな集落がありましたが、1920年代後半に水利建設の余波で集落が放棄されてからは無人の地だったため、収容所の立地として好都合だったようです。気候はかなり厳しく、夏は酷暑、冬は冷涼で、強風による砂塵が吹き荒れるという環境です。当時の収容経験者は、一様に自然の厳しさが身に染みたようです。再現されたバラックの内装は粗末で、寒気を凌ぐには厳しかったことがうかがえます。

 ところで、訪問した当時は、“Concentration camp”(強制収容所)という呼び方だったと思います。これは史跡としての正式な名称ではなく、通称として参観者や現地の人たちはこのように呼んでいました。ところが、今回、記事を書くうえで調べたところ、日系アメリカ人の収容所については、“Internment camp”(抑留施設?)という呼び方になっているようです。これはどういうことなのでしょうか?

 ブリタニカの用語定義では、“Concentration camp”は“Internment camp”と同義としており、民族差別や政治意図で不法に無実の人々を強制的に収容する施設という解釈です。日本語の強制収容所の定義と同様といってよいと思います。一方で、Wikipedia(英語版)は、“Concentration camp”を“Internment”にリダイレクト処理しています。これは、“Concentration camp”にはナチス時代の強制収容所が含まれるが、処刑設備を整えた“Extermination camp”(絶滅収容所)とは厳密に区別すべきという議論を踏まえてのことのようです。ようは、従来の呼称である“Concentration camp”は広汎に過ぎて正確な史実を伝えるのに不適切だから、強制収容所をいう場合は“Internment”の用語をつかうべき、という主張のようです。

 ただ、世間の認識としては、ナチス時代の絶滅収容所も含めて、いまだに“Concentration camp”という表現が一般的だと思います。実際に、筆者が当時、現地で耳にした日系アメリカ人収容所に対する“Concentration camp”という表現は、ナチスの強制収容所と同等にならぶ罪悪であり悲劇である、というニュアンスでした。だからこそ、マンザナーを訪問していた参観者や現地の人たちは、一様に、自国本土に“Concentration camp”が存在した事実をショックなことと受けとめていたわけです。それが史実として正確か否かは別として、それが“Concentration camp”という言葉が持つ重さなわけです。

 筆者は英語が得意ではないので、正確な語彙の意味するところとその区別はわかりません。あくまでも憶測にすぎませんが、“Concentration camp”と“Internment camp”は、語義やニュアンスとして区別されつつあるように思います。それは、昨今、急速にクローズアップされている中国におけるウイグル人収容施設といった世情が参考になりそうです。

 というのも、欧米のメディアでは、中国政府が呼ぶ“Re-Education Camp”(再教育施設、かつての労働改造所と同じ)を主として“Internment camp“と表現しています。しかし、民族浄化を狙っているという主旨の記事では“Concentration camp”という表現をつかっている例があります。“Concentration camp”という表現は、単なる人権侵害を超えて、民族浄化を目的とした深刻な人道危機を含意するものという認識になりつつあるのかもしれません。

 史実は正確な伝承が求められますが、一方で多くの場合は、世間に流布される過程で、いろいろな部分が捨象されます。史実は常に玉虫色で、伝えにくいからです。いちど定着した名称から受けるイメージは、多かれ少なかれ、本来意図した含意や史実とは離れてしまうものです。強制収容所の用語をめぐる動きは、そのことをあらわしていると思います。

マンザナー収容所の様子を写真に残したアンセル・アダムス(Ansel Adams, 1902-1984)のモノクロ写真を、AIによる深層学習の技術をつかい、彩色で再現した写真集『強制収容所の日系アメリカ人』です。Amazonの電子書籍版(Kindle)でリリースされています。

塹壕エキスポってのがあるらしいよ。

「塹壕エキスポ」とは、2018年のMVGからはじまったイベント内イベントです。穴掘って、入って、翌日にはまた埋め戻すだけですが、すごく楽しいです。

 塹壕エキスポは、@A_S_Pirogovさんの発案ではじまったイベントのはずです。毎年初夏に群馬県軽井沢市で開催されているMVGのイベント内イベントという位置づけです。自分は息子と一緒に2018年5月に開催された初回にBCoのメンバーとして参加しました。このときは初の試みということで、軍曹(@Msg. Merwin J. Toome)の監修の下、先任(@xxkfirxx)とともに立看板と配布用のチラシを(かなり気合いを入れて)事前準備してPRに励みました。

 開催期間中に本部受付前に掲示させてもらった案内板です。目立つようにA1サイズの大型パネルで作成しました。地図に場所が書いていませんが、これは直前まで穴を掘る場所と参加グループの調整のためです。パネルはこの状態で業者に発注し、現地でシールを貼ったり、手書きしたと思います。パネルそのものの出来はよかったと思います。

 こちらはチラシです。イベント期間中に本部の受付で来場者へ配っていただきました。表面は、日系米兵の回想を引用して、歩兵にとっての塹壕の位置づけをご紹介しています。すごく辛そうな回想ですが、イベントでの自分たちは、もちろんそんなことはありません。裏面は、開催期間中に構築予定の各国掩体の説明です。足を運んでもらえるようにシークレット(右上の「Confidential」)も入れています。これなんだったかな?後述の一人用うつ伏せ掩体だったかと思います。

 このチラシは、A4サイズの両面カラー印刷で500部を作成しました。先任には「刷りすぎ!」と呆れられましたが、余った分は翌春に開催されたVショーのBCo展示ブースで配布して、2019年の開催回のPRにつかいました。

2019年3月に東京浅草で開催されたVショーでの展示は、こちらのレポート「VショーWWII米軍工兵・衛生器材展示に参加してきました。」をご覧ください。

 塹壕エキスポの展示場所です。MVG会場のリビング・ヒストリー・エリア西側、車両走行路を挟んだ森の前縁にあたる台上に、横並びで各国掩体を構築しました。入口には各国掩体を紹介する立て看板を設置しました。

 こちらは米軍エリアに設置した案内板です。二人組の小銃掩体(左イラスト)、一人用のうつ伏せ掩体(左上)、シェルター・ハーフ・テント(左下)の説明です。当日はこの通りに展開しました。

 初日の構築中の様子です。二人用の小銃掩体です。かなり掘り進んでいるように見えますが、まだ深さは半分程度です。掘るのは俗称「Tボーン」と呼ばれる個人装具の小円匙です。浅間山の麓で火山灰の土質のため、かなり掘りやすいです。それでもかなりの岩石もあり、午前中から昼食をはさんで午後まで、完成までにはけっこうな時間がかかりました。トラウザーズのポケットからスマホが見えているのはいかんですね。

 一人用のうつ伏せ掩体を構築中に、計測用の麻紐で深さを測っているところです。麻紐はあらかじめ教範に規定のサイズになるようにフィートでつくってあります。

 掩体の構造とサイズは教範に規定があります。浅かったり、大きすぎたりすると、攻撃を受けたときに敵弾や破片が飛び込んで負傷する恐れがあります。また、保温や雨滴を防ぐ耐候性にも影響があります。これではせっかく構築した掩体としての価値を損なうことになりますから、規定通りに構築する必要があります。実際に規定通りに構築することで、なぜそのように定められているかが理解できます。

 完成した二人用の小銃掩体です。まわりに盛り土をして敵弾避けとしたうえで、あらかじめ除けておいた草の生えた表層を、敵方を中心にして配置し、偽装します。なお、この掩体は見学者に配慮して、側面と底に麻土嚢をつめ、足場と崩壊防止の処置をしています。

 イベント開催中の2日間は基本的に掩体で過ごします。自分は息子と参加したので、夜はスモール・ウォール・テントで宿営しましたが、BCoのメンバーは有志で夜を掩体で過ごしています。掩体の上にはシェルター・ハーフ・テントを張り、底にブランケットを敷いて身体を横にします。食事は第一線を想定してグループレーションの10in1。4食ともに温食はありません。

 掩体での様子を撮影した写真を時代がけしてみました。左はバディのPvt.クライネさんです。翌年の2019年4月にイタリア戦線を再現した演習でもバディさせてもらいました。

2019年4月にかけて静岡県富士周辺で開催された演習時の様子は、こちらの回想風レポート「イタリアンフロントー1944年6月」をご覧ください。

 二日目の午後は、ミリタリーアーツさんのご厚意で、WW2米軍の3/4トラックであるWC-52をお借りして場内を一周しました。編成上、3/4トントラックは大隊本部に割り当てがあります。使役として本部に出頭する分隊の風景でしょうか。 

 最終日、撤収のときに主催のサムズミリタリア社長が来られて、ぜひ来年もやって欲しいとおっしゃっていただきました。参加者にも好評で、2019年6月のMVGでは、第2回目が開催されています。

 2019年に開催された第2回目のチラシです。自分はスケジュールが合わずに参加できませんでしたが、前年に引き続いてパネルとチラシを作成しました。2019年は機関銃の掩体が中心で、時代も第一次世界大戦から1970年代までと幅広くなりました。

 塹壕エキスポは、2020年のMVGでも実施の方向で検討されていたと思いますが、残念ながら新型コロナウィルス蔓延の影響によってMVGが開催中止となり、塹壕エキスポも開催できませんでした。2021年にMVGが再開できれば、塹壕エキスポも再開できると思います。ご関心のある方は軽井沢まで足を運んでみてください。

 本稿では、2018年に開催された第1回目の塹壕エキスポについて、筆者が参加したグループのBCoのみを紹介しました。もちろん、各国の掩体も素晴らしい光景でした。また、2019年のイベントには参加できませんでしたので、本稿では最新の情報をご紹介できませんでした。これらについては、先任がブログ「What Price Glory」で詳しくレポートしています。下記に記事へのリンクをつくりましたので、ご覧になってください。

MVG2019 塹壕Expoレポート 【1】 【2】 【3】
MVG2018「さんごーExpo’18」【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】

https://kfir.militaryblog.jp/

11月3日(祝・火)に、塹壕エキスポ発案者の@A_S_Pirogovさんが主催するイベント「Go to Trench キャンペーン」が大阪で開催されます。塹壕や糧食の再現が予定されています。海洋堂さんからドイツ軍の対空砲20mm Flak38も展示されるそうです。塹壕エキスポは来年のMVGまでお預けですので、すぐに楽しみたい方は参加されてみてはいかがでしょうか?イベントの詳細と参加受付は、こちらの→TwiPla「Go to Trench キャンペーン貸切」をご覧ください。

いろいろと奥が深い。Mk. II手榴弾。#3(まとめ)

これまで2回に記事をわけて、Mk2手榴弾の変遷についてみてきました。最後に、Mk2手榴弾をモデル別に一覧としてまとめるとともに、もっともオーソドックスなモデルをご紹介します。

 各種教範等の資料にもとづいて作成したリストです。1940年~1945年に製造された7種類のモデルを対象に、仕様と外観の特徴を掲載しています。製造年は推測になります。

製造年名称炸薬信管弾体高弾体径外観備考
1940-1942Grenade, hand, fragmentation, Mk. II無煙火薬 0.74oz (21g)M1085mm52mm弾体黄色塗装、ガスケットあり、底部プラグ穴あり。
1940-1942Grenade, hand, fragmentation, HE, Mk. IITNT M585mm52mm弾体黄色塗装、ガスケットあり、底部プラグ穴あり。信管と弾体は分離梱包。1940年時点で限定標準。1942年時点で在庫なし。
1942-1943Grenade, hand, fragmentation, Mk. II無煙火薬 0.74oz (21g)M10A1/M10A285mm52mm弾体黄色塗装→ODを上塗り、ガスケットなし。
1943-1944Grenade, hand, fragmentation, Mk. IIA1無煙火薬 0.74oz (21g)M10A385mm52mm弾体OD塗装、ガスケットなし。1944年に限定標準。
1944-1945Grenade, hand, fragmentation, Mk. IITNT 1.90oz (54g)M6A4C85mm52mm弾体OD塗装、ガスケットあり。T2E1信管の代用として余剰M6信管を利用。
1944-1945Grenade, hand, fragmentation, Mk. IITNT 1.90oz (54g)T2E185mm52mm弾体OD塗装、ガスケットあり。レバーフック上向き。余剰旧型弾体を使用。
1945-Grenade, hand, fragmentation, Mk. IITNT 1.75oz (50g)M20490mm57mm弾体OD塗装、ガスケットあり(2枚)。レバーフック上向き。余剰新型弾体が払底次第、新型弾体に更新。

 名称は、1943年~1944年に製造されたM10A3信管を装着するモデルのみ型式が「A1」となります。それ以外はすべて「Mk. II」(Mk2)です。初期のTNTタイプは無煙火薬タイプと区別するため、高性能爆薬を示す「HE」が名称につけられていましたが、1944年以降は戦後の廃止にいたるまで「Grenade, hand, fragmentation, Mk. II 」です。

 1942年7月に発行された弾薬技術教範です。Mk2手榴弾は、弾体が黄色で塗色されていることを示しています。もともと米軍では、炸薬が充填された実弾を黄色の塗色としていました。これは手榴弾以外の砲弾や地雷などもすべて同じです。しかし、戦争の本格化にともない、弾体の塗色をODに変更しています。偽装の必要性からとおもわれます。

 兵器弾薬中隊野戦教範(FM 9-20)には、1943年10月に塗色変更を指示する補遺C1が出されています。この頃には、すでに手榴弾を含む弾薬類は、工場出荷時の段階でOD塗色が実施されていたと思われます。また、在庫品を塗装しなおして前線に送ったり、教範にもとづいて前線で塗装する例もありました。工場出荷の場合は、あらかじめODで塗装したうえで、ネックに炸薬入りの実弾を示す黄色の帯を入れました。

 第二次世界大戦でオーソドックスなMk2手榴弾の再現です。1942年~1945年に米軍兵士が手にしたモデルになります。左が戦前からあるMk .II(無煙火薬、M10信管)、中央が1942年から製造されたMk .II(無煙火薬、M10A1/A2信管)もしくは1943年から製造されたMk .IIA1(無煙火薬、M10A3信管)、右が1944年以降に製造されたMk .II(TNT、M6A4C信管)です。

 塗色は、左は弾体が黄色でレバーは未塗装、中央は弾体がODでレバーは未塗装かODです。この中央のモデルは、いったん黄色の弾体に上からODを上塗りして、塗装が剥げた部分から黄色の地肌がみえるようにしてもいいかもしれません。また、戦地での塗装を再現するならば、ネック部の黄色のバンドを残さず、信管を含めてすべてODに塗装するのもよいと思います。右のモデルは弾体がODでレバーもODで、工場出荷時からこの塗色になります。写真では、光の加減で中央と右のモデルの弾体のOD色に違いがありますが、本来は両者ともに変わりません。

 左と右のモデルは、ともに信管と弾体の間に封密用のガスケットがつきます。中央のモデルにはガスケットはつきません。

 第二次世界大戦での再現であれば、1942年までは左のモデル、1943年以降は中央のモデル、1945年は中央か右のモデルがよいでしょう。

 海外製のレプリカMk2手榴弾のレバー部分に、M10A3信管のスタンプを再現してみました。Mk.IIA1手榴弾になります。1943年から製造がはじまり、おそらく、第二次世界大戦の戦場でもっともオーソドックスなモデルの再現です。

 このレプリカMk2手榴弾は、外観としてはパーフェクトですが、弾体がプラスチック製なので重量が軽い点が唯一残念な点です。そこで、実物に近い重量と質感を再現するため、製作にトライしました。そのことは、また改めてご紹介します。

いろいろと奥が深い。Mk. II手榴弾。#2(信管編)

前回の記事では、Mk2手榴弾の変遷と、弾体の形状についてご紹介しました。今回は信管について大戦型と戦後型という区別で見ていきたいと思います。

 ところで、昨年4月にブログで「爆薬の起爆に必要な雷管と伝爆薬」を掲載した際に、記事の末尾で「砲弾や手榴弾の伝爆薬については、次の機会にご紹介したいと思います」としたままでした。今回、Mk2手榴弾の信管とあわせて、手榴弾の伝爆薬(起爆筒)についてもご紹介します。

 

 WW2の米軍歩兵が手にする最もオーソドックスなMk2手榴弾である無煙火薬タイプ(左)と、改良型のTNTタイプ(右)です。信管は、無煙火薬タイプがM10シリーズ、改良型がM6シリーズです。信管の形状はまったく同じです。 信管を弾体に装着すれば、外観の違いはレバーにあるモデル名の刻印だけです。

 筆者が製作したレプリカです。M10シリーズとM6シリーズの信管は本体とレバーは共通ですが、モデルが違いますので、天頂部の刻印やスタンプが異なります。WW2では、おおむね初期が打刻、後期がスタンプでした。レプリカではスタンプで再現しています。

 筆者が製作した信管と起爆筒のレプリカです。信管は実物を型取りして、ホワイトメタルの鋳造で製作しました。左がM10シリーズ、右はM6シリーズの信管です。両方とも下のほうに付いているのは、炸薬を起爆されるための起爆筒です。

 M10シリーズは起爆筒をイグナイター、M6はデトネーターと区別します。この区別は、炸薬に起爆するために火薬をつかうか、爆薬をつかうかの区別です。

 イグナイターとデトネーターの外観上の違いは、金属製の起爆筒の長さとシーリング剤です。起爆筒の長さは填薬量の違いです。イグナイターは黒色火薬が7gr(0.45g)ですが、デトネーターは無煙火薬とテトリルで合計20.5gr(1.33g)です。シーリング剤は、イグナイターが緑、デトネーターには赤が塗られていました。実物の放出品は、使用済みもしくは不活性化処理済みなので、起爆筒はほとんど出回りません。目にする機会もないと思います。

 信管には、銃用とほぼ同じ構造の雷管と、その下には導火線が充填されています。安全環を引き抜くと、レバーが外れてバネの力でストライカーが回転し、雷管を叩きます。雷管の発火で導火線に着火します。おおむね4~5、6秒かけて起爆筒まで火が達すると起爆筒が爆発し、弾体内の炸薬に爆轟を伝えます。

 筆者が製作したレプリカの手榴弾信管で、起爆の仕組みを説明します。Mk2手榴弾の信管は、この写真で示したように10点で構成されています。①~④が外から見えるもので、⑤~⑩が中にあって見えないものです。

 まず、安全環③を引き抜くと、レバー②が外れます。レバーが外れるとバネ⑦の反発でストライカー⑥が回転し、雷管⑨を叩きます。導火線⑩に着火すると、4~5秒後に火が起爆筒⑤に達して起爆し、弾体内の炸薬を爆轟させます。

 前回の記事でご紹介したように、起爆の仕組みそのものは、Mk2手榴弾が登場した1918年からかわっていません。戦後もほとんどかわっていません。シンプルですが、非常に信頼性が高い方式であるといえます。

 信管の仕組みと機能から、リエナクトメントにとって重要な形状に話をもどしましょう。

 Mk2手榴弾は、1944年に炸薬を無煙火薬からTNTに変更した際に信管部も改良され、新型が登場しています。写真は左が従来のM6、右が新型のT2E1(後のM204)です。信管本体の形状は大きくかわっていませんが、レバーの引っ掛かりが上下逆向きになりました。 M6はレバーの先端が信管のつばに対して下向きにわん曲して引っ掛けていたのが、新型では二又で下から上向きにわん曲して引っ掛ける形状になりました。この上向きの引っ掛け型は、戦後の信管に継承されています。

 新型信管は、1945年には製造がおこなわれていたと思われますが、従来のM6信管が余剰在庫として存在したので、改良型のTNTタイプは、戦後しばらくのあいだ両者が並行して配備支給されていたようです。

 前回の記事でもご紹介した戦後のMk2手榴弾です。信管はM204A1です。初期のT2E1(M204)から信管の形状が変更されています。信管と弾体の螺着部の突起がなくなり、弾体のネックにフィットする形状となっています。繰り返しになりますが、 現在、国内で流通しているレプリカやダミーは、ほぼすべて、この戦後モデルを原型としています。

 1944年から製造が再開されたTNTタイプでは、無煙火薬タイプで廃止されていた信管と弾体との間に挟み込むガスケットが復活しています。左がWW2時代のガスケットの実物(M6信管用)、右がレプリカの代用品です。 ガスケットは直径2センチの赤色の硬質紙製です。

 前回と今回の記事で、Mk2手榴弾の変遷についてご紹介しました。次回は、Mk2手榴弾の種別と塗色も含めた外観上の区別を一覧としてまとめたうえで、第二次世界大戦の再現においてもっともオーソドックスなモデルについてご紹介します。

  前回の記事で出したクイズの答えは、おそらくみなさんおわかりだったかと思います。左がレプリカです。右が実物。不活性化処理済みの榴弾で、軍曹(Msg. Merwin J. Toome)のコレクションです。

 左のレプリカは海外製で、弾体がプラスチック、信管部がアルミ製です。非常によくできています。ガスケットを挟んでいるので、戦争末期のTNTタイプ(信管はM6A4C)を再現したものになります。

 信管部の色の違いは材質の違いです。右の実物は亜鉛製です。戦後の設計図面では代用としてアルミも規定されていますが、戦時中に貴重とされたアルミは手榴弾信管の生産にはつかわれなかったでしょう。

 以前にBCoのメンバー向けにまとめて輸入したときの写真です。ほれぼれするような出来です。このレプリカよりも出来のよいものは見たことがありません。ただ、残念な点は、弾体がプラスチック製なので重量が軽いことです。

いろいろと奥が深い。Mk. II手榴弾。#1(弾体編)

WW2米軍の手榴弾Mk2。鋳鉄製の弾体に使用済み信管をつけたお土産品からはじまり、プラスチック製の1/1プラモデルやBB弾入れまで、様々なレプリカ商品が存在します。しかし残念ながら、再現度でパーフェクトなもの、否、及第点に達しているといえるものも、国内で見たことがありません。

 Mk2手榴弾は、米国においては1918年から1960年代までおよそ半世紀にわたってつかい続けられており、その間に改良や戦時体制による変更が繰り返されてきました。戦後日本では、米国から自衛隊へ兵器の供与があったこともあり、Mk2手榴弾は馴染みのあるものですが、放出品や訓練用のダミーとして流通するものは戦後のものばかりです。レプリカ商品にはWW2時代を再現したものは見かけません。

 そこで今回は、リエナクトメントにおける再現の参考になるように、Mk2手榴弾について、その変遷も含めてご紹介したいと思います。記事は3回にわけて掲載します。第1回目は弾体の変遷について、第2回目は信管の変遷についてみていきます。まとめとして、第3回目の記事で、WW2時代の再現にふさわしいMk2手榴弾についてご紹介します。

 1918年発行の教範に掲載されている手榴弾の写真です。左端が最初期のMk2手榴弾です。Mk2手榴弾は、鋳造の鉄製弾体に破片の切れ込みが入った“パイナップル”と呼ばれるスタイルそのものは不変ですが、信管・レバー・弾体には変遷があり、シルエットもかなり異なります。

 同じく1918年に発行された教範に掲載のMk2手榴弾信管部の構成部品です。わっか状の安全ピンを抜くとレバーが外れ、内部のスプリングが回転してストライカーで雷管を叩き、火管に点火する仕組みです。基本的な構成はかわりませんが、信管本体とレバー形状は改良が加えられて変更されます。

 1940年には、弾体はこのようなシルエットになりました。初期型のMk2と比較してスマートになり、破片の切り込み形状も小さく、破片の数が増えています。破片断面数は8条です。信管とレバーの形状も変更されています。このモデルが大戦型のMk2手榴弾として最もオーソドックスなものですが、この外観を忠実に再現したものが、国内には流通していません。

 弾体の構造にも変化がありました。左が1942年に発行の手榴弾教範に掲載されているイラスト、右が1943年に発行の技術教範に掲載されているイラストです。底穴とプラグが廃止され、密閉された状態に変更されています。戦争が始まってから構造の単純化と生産工程の変更により、炸薬の充填が底からではなく、信管口からとなったからです。

 銃後でMk2手榴弾を製造している風景です。信管の螺着穴から計量した炸薬をつめています。炸薬が白くみえるので、後述するように1944年から製造が再開されたTNTタイプの改良型でしょう。 

  筆者が所有するMk2手榴弾のプラクティス(演習弾)です。弾体の底部に演習用の火薬を詰めるための穴が開いていますが、弾体の形状そのものは榴弾と同じです。というのも、戦争が始まってから底部の穴が空いた旧型の弾体は、プラクティスに流用されたからです。

 なお、1942年時点の塗色規定では、弾体は実弾が従来の黄色からODに、演習弾は水色に、訓練用のダミーは黒で塗色されるようになっています。塗色については、第3回目の記事でご紹介します。

 ところで、Mk2手榴弾には、炸薬が無煙火薬のタイプと、TNTのタイプの2種類がありました。TNTのタイプは限定標準装備で、第二次世界大戦が始まった時点ではすでに在庫は払拭しており、戦地には無煙火薬のタイプが送られました。炸薬はわずかに20グラムです。南方戦線で米軍と戦った日本兵の回想で、米軍の手榴弾は威力が弱く、米兵は日本軍の手榴弾を恐れていたという記述があります。日本軍の九七式手榴弾の炸薬はTNTが57グラムです。自軍の手榴弾の威力不足に痛感したのでしょう。米軍は戦争中に炸薬をTNTに変更し、填薬量も54グラムに倍増させた改良型を生産します。1944年のことです。

 これが炸薬をTNTにした改良型のMk2です。開戦前の旧型TNTタイプは、信管を分離して梱包していましたが、この改良型は無煙火薬タイプと同様に、信管を装着したまま梱包できるようになりました。

 従来の無煙火薬タイプ(左)と改良型のTNTタイプ(右)を比較すると、弾体の形状が異なることがわかります。改良型Mk2では、破片の数は同じですが、段差がより深くなっています。

 戦後に軍需部が作成したMk2手榴弾の弾体設計図面です。破片断面の数は8条で変更ありませんが、弾体の径は57.4mm(+約6mm)、高さ90.5mm(約+5mm)と大きくなっています(括弧内は無煙火薬タイプの旧型弾体を実測した値との比較)。改良型TNTタイプは、在庫がある旧型弾体を使用しつつ、新型に移行していきました。弾体の大きさに違いがあるのはそれが理由です。

 なお、図面には、弾体の破片断面に、製造業者を識別するためのイニシャルまたはシンボルマークを鋳型でつける指示があります。このイニシャルやシンボルマークは、実物の真贋判別で、海外のコレクターの間で重視されていますが、筆者はこの識別記号がいつからおこなわれていたか、どのような記号が存在したかについては定かではありません。不見識ではありますが、リエナクトメントにおける再現としては、あまり重視する必要はないと考えます。

 戦後の1960年代の教範に掲載されているMk2手榴弾のイラストです。現在、国内で流通しているレプリカやダミーは、ほぼすべて、この破片段差が深くなった戦後弾体を原型としています。

 次の 記事では、信管についてご紹介します。

 最後にクイズです。どちらが実物でしょうか?