候敵器は存在したのだろうか?

南方戦線では、斬込夜襲を得意とする日本軍に対して、米軍が集音マイクロフォンを活用し、日本側の行動を把握して、意図を封じ込めたとされています。「候敵器」と呼ばれるものですが、その実相は明らかではありません。

本稿公開後、地中埋没式のマイクロフォン聴音器T21について失念していたため、記述とイラストを追加しました。文中の下線部が追記箇所です。(2020年10月2日)

 第二次世界大戦の南方戦線に従軍した日本兵の回想に、第一線において米軍が集音式の器材を設置し、日本軍の行動を把握していたというものがあります。砲兵将校としてフィリピンの第一線で戦った作家の山本七平も「候敵器」と呼ぶその器材と米軍の戦法について書き残しています。

夜になると、彼らは必ず安全な位置に下がり、最前線に候敵器、第二線に赤外線遮断装置をおく。候敵器は精巧な集音マイクロフォンで、しのびよる斬込隊をまず音で捕らえて大体の位置を知り、赤外線遮断装置にかかったところで集中射をあびせる。(241頁)
それまでの数日の偵察で、ジャングルにおおわれた稜線づたいに敵の背後に出、ある地点の絶壁に近い斜面を下りて下の竹林を通過すれば、不思議にそこには候敵器も赤外線遮断装置も設置されておらず、迫の陣地に近づきうることをわれわれは知っていた。(中略)襲撃は失敗だった。敵もさるもの、そこは、斬込隊をワナに誘導するさそいの隙だったらしい。南方の竹林は、少し奥へ入ると地表に枯竹が山積しており、そこへ踏みこむと、歩けば否応なくポキポキと音がする。日本軍が巧みに候敵器を避けることを知った彼らは、わざとそこに、候敵器も遮断装置も設置せず、重機を並べて待ちかまえていたのであろう。(259頁)

山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』文春文庫,1987年

 この点、山本は「候敵器について教育をうけなかった老召集兵」とも記しています(同書241頁)。当時の日本軍が第一線で候敵器について部隊教育を実施していたことを示唆しています。候敵器については、山本以外の従軍経験者もたびたび回想録や戦友会誌などで触れています。斬込夜襲を得意とする日本軍に対して、装備と兵力に勝る米軍が最新技術を駆使して日本側の意図を封じ込めたという認識が一般的といえましょう。

 ところが、この候敵器について、日本側の回想は山本がいうように「集音マイクロフォン」という点ではおおむね一致するものの、不思議なことに具体的な器材を発見したり、滷獲もしくは破壊したという回想は、管見の限りみた記憶がありません。そしてより深刻なのは、運用側であるはずの米軍に候敵器に関する資料――器材や運用に関する教範や公刊戦史における記述――が管見の限り確認できていない、ということです。すなわち、生還した日本兵の多くが語る候敵器は、その詳細について不明であるばかりか、現状では実在したのかすら定かではないのです。

 とはいえ、候敵器の詳細が不明であり、運用側の米軍に公的な資料が存在しないことを理由に、候敵器を戦場におけるデマやホラであると断じるのも、早計ではないかと思います。そこで、本稿では、第一線の米軍歩兵部隊の立場から、仮に候敵器を運用したとすれば、どのような器材をつかい、どのように運用したかについて、推測してみたいと思います。

 現時点で候敵器として考えられる解釈は以下の3つがあります。

  1. 砲兵の観測器材である聴音器を流用したという解釈です。聴音器は敵の大砲の射撃音を聴音して測量することにより、発射地点を推定するものです。これを対歩兵の観測に流用したのではないか?ということです。しかし、この可能性は低いのではないかと考えます。まず、WW2米軍では軍団砲兵に配属されている観測大隊が聴音器を運用していましたが、観測大隊が第一線で対敵歩兵の観測に従事することは編成や運用上考えにくいこと、また、聴音器は、輓馬や車両で牽引する大きさの器材ですから、ジャングルにおいて運用するには難があります。この点、地中埋没式でマイクロフォンを使用したT21という聴音器材が試験採用されています。これは従来の地上設置型のラッパ式聴音器と比べると遙かに軽量で、前線でつかわれた可能性もありそうですが、仮にそうであるならば(そして対日戦で敵歩兵の観測にめざましい戦果を挙げたならば)、公刊戦史で言及されるはずではないかと考えます。
  2. 英軍の供与器材を活用したという解釈です。筆者は未確認ですが、日本軍は英軍が候敵器として運用していた器材を滷獲したという説があります。米軍が英軍から器材の供与を受けて対日戦で使用したとすると、米軍の資料に候敵器の記載がないことは不自然ではありません。なぜなら英軍で候敵器の秘密指定が解除されていなければ、米軍も公刊戦史において秘密兵器の存在を記すことはできないからです。この説については今後も留意したいと思います。
  3. 歩兵部隊が装備する通信器材を流用したという解釈です。筆者は最も可能性が高いと考えています。以下では、この解釈について具体的に検討してみたいと思います。
地中埋没式でマイクロフォンを活用した聴音装置T21です。大きさは高さ約43センチ、直径約15センチ、重量は約10kgです。海外のオークションに出品されたものから、1943年には製造されていたことがわかります。時期的にも対日戦に使用された可能性は高いですが、それを裏付ける資料は管見の限りでは発見していません。

 WW2米軍歩兵部隊は、通信器材として有線と無線を装備していましたが、当時の無線機が抱える電池と電波の限界からすると、候敵器として流用されたのは有線であろうと考えます。米軍の立場から、有線を活用した候敵器の運用を考えてみます。

 候敵器は複数の敵出没予想地点に設置し、聴音によって常時観測が必要です。敵との距離や有線の延長を考慮すると、分隊規模の観測班(候敵班)を編成し、主力の前方で聴音活動にあたらせたものと考えます。

CE-11ユニット。約400メートルの有線リールと音声通話器TS-10を接続することで、無電池式音声通話回線として機能します。

 器材について考えてみます。第一線の歩兵部隊であるライフル中隊は、無電池式の音声通話ユニットCE-11を2回線分装備していました。CE-11は、約400メートルの有線を巻き取ったリール(DR-8)に、音声通話器(TS-10)をつなげたものです。TS-10は、ハンドセット内部にもつユニットのコイルで音声と電気信号を相互に変換します。通話に電源を必要としません。有線を延長することで、最大8kmの遠隔通話を可能とする性能があります。実際には減衰による影響があるため、線種によりますが、教範には1.6km毎に増幅器を設置することとしています。

TS-10ハンドセットから音声変換ユニットを取り外した様子です。受話と送話で記載の区別がありますが、実際は互換性があります。

 TS-10のユニットは受話・送話双方に互換性があります。1台のTS-10を分解してユニットを取り出し有線につなげば2地点分の聴音が可能です。3台のTS-10で、6地点の聴音が可能です。ユニットを取り出し、例えば手榴弾のファイバコンテナに入れれば、筒状による集音と防水防滴の効果が得られます。また、1台のリールで延伸できる有線は約400メートルですが、受話のみの単線であれば、2倍の距離約800メートルに延伸が可能になります。

ポータブル式で6回線の切り替えが可能な野戦電話交換機。 重量は約5.4kg。据え置き型で同じ6回線型のBD-71と比較すると1/5に軽量化されている。使用方法を解説する教範には、ジャングル及び山岳地で使用する器材であると記載がある。

 これらの候敵器は、有線で交換機に接続します。観測班は交換機を持参し、拠点で回線を切り替えながら、常時聴音にあたっていたものと考えます。米軍には、6回線の切り替えが可能なポータブル式の交換機SB-5/PTが存在しました。同器材はジャングルと山岳地帯で運用することを前提に試験採用されたものです。候敵器の運用にはうってつけの器材と思われます。

 様々な条件を考慮すると、1観測班が設置できる聴音地点は多くても4-6箇所、延伸距離はリールの携行本数や隠蔽設置に手間がかかることを考えると、1地点につき1.6kmが限度と考えます。6箇所に聴音地点を設けた場合には、単線利用としても12本のリールが必要です。兵士一人が携行するリールの定数は3本ですから4人が背負う必要があります。これに聴音用交換機、主力との連絡手段としての有線や無線、緊急時の砲迫支援要請のための信号弾など、携行器材を考慮すると、分隊として行動可能な限界と考えます。

 2020年9月20日に千葉県でおこなわれたイベントで、CE-11ユニットを候敵器としてつかった場合に実用性が得られそうか、簡易なテストをおこないました。テスト方法は、森林内で地上に置いたTS-10をリール1本分(約400メートル)の有線に接続したうえで、TS-10から約2メートル離れた地点を2名が歩行し、接続先のTS-10で歩行音が聞こえるか否かです。結果としては、歩行音は良好に聞こえたということです。今後、機会が得られれば、本稿で示した改造設置も含めて実地テストをおこないたいと思います。

山本七平は、 大ベストセラー『ユダヤ人と日本人』で知られる作家ですが、本稿でもご紹介したように、戦前に砲兵将校としてフィリピン戦線に従軍しています。この本では山本が入営前から終戦、帰国にいたるまで、日本軍で体験した様々な経験が独特の目線で綴られています。日本軍=日本社会の縮図がよくわかる、類を見ない良書だと思います。

2017年夏に御殿場で開催されたミナミカタ戦はすごかった。

2017年の夏に御殿場で開催された日米戦イベント「ミナミカタ戦」に見学参加した、その思い出。

タイトルに「ミナミカタ戦」と書いていますが、イベントの正式な名称は「この戦場は南方」です。下記のミリタリーブログでオフィシャルなイベントレポートがアップされています。YouTubeで動画も見られるようです。ご関心のある方はぜひご覧ください。

https://espg.militaryblog.jp

 MVG2017でお友達になっていただいたBCoのメンバーが日米戦のイベントを主催するからこない?と誘われました。軍曹(@bco_100bn)と先任(@xxkfirxx)が日本軍で協力するというので、自分も急遽、チビと一緒に軍装を整えて見学参加することにしました。

 トップの画像は、1泊2日のイベント2日目の戦闘状況修了後に、講評と集合写真の撮影を行った時の様子です。このイベントは本当にすごかった。これまでイベント参加経験のないお宅マニアの自分にとって眼から鱗が落ちたイベントでした。

 Bco先任氏が参加協力しているので、糧食も本気の再現度です。

 見学参加とはいえ、子供を連れた新参者が場の雰囲気を壊したくなかったので、出来る限り衣装を揃えることにしました。たしか1ヶ月ないぐらいでしたが、皆さんのご協力もあって、なんとか上から下まで二人分を揃えました。

 いくら当時のご先祖様達が現代人より小柄だとはいえ、さすがにチビのサイズの軍衣袴はありませんので、ゾゾタウンのリユースウェアでそれっぽい色柄のものを複数取り寄せ、靴は地下足袋で見繕いました。装具を付けると良い雰囲気だと思いませんか?自分はいろいろな方からのご協力で、一応、頭から下まで揃えることができました。南方の貨物廠あたりにいそうなオッサン召集兵です。

 この写真を撮ったのはたしか二日目の状況中で、皆さん森の中に入っていた時だと思います。日本軍大天幕の前で、赤城兵団さんからお借りした双眼鏡でポーズを決めるチビ。なかなか雰囲気が出ています。

 このイベントは、リエナクトとヒストリカルゲームの中間?的位置づけだったかと思いますが、本当に素晴らしいイベントだったと思います。次回開催があるならば、その時は見学ではなく、なんらかの役割をもって参加したいと強く感じました。せっかく揃えた南方衣装もこのときだけしか袖を通していませんし。

八九式重擲筒用試製照準子

筒身を45度の角度で正確に保持するのは可能だけど、いろいろ難しかったのでしょうね。

 日本軍の擲弾筒は砲架を持たない軽迫撃砲で、筒身を手で斜めに保持し、榴弾を砲口から装填して発射します。砲架がないため軽量で携行性に優れ、砲の運用を兵士一名でも可能にしたという点で非常に優れた兵器といえそうです。対日開戦後に米軍が急遽、60ミリ迫撃砲の擲弾筒的運用を真似たのもそれを証明しているといえます(→「日本軍を真似た…が、上手くいかなかった?米軍60ミリ迫撃砲“ONE MAN MORTAR METHOD”」

 日本軍の擲弾筒には手元にある撃針位置を上下にずらすことで射程を調節できる機構が付いていました。射撃時は斜め45度の角度で保持し、撃針位置で射程を変えるわけです。しかし、手で 45度の角度を正確に保持するのは可能ではあっても実用上は困難があったのでしょう。 1941年に採用された試製照準子の存在がそのことを示しています。

  試製照準子は「八九式重擲筒ニ取付ケ筒ニ四十五度ノ射角ヲ付与スルノ用ニ供ス」もので、螺着式のバンドで筒身に取り付ける指針型の水準器です。 この図面は防衛研究所が所蔵している現地改修のための取扱説明書に収録されているものです。筒身に穴をあけてネジ留めし、バンド部を締めて取り付けます。

 このようにバンド部には筒身の方向照準線に合わせるための溝切りがなされ、赤色のペイントもされています。 45度の発射角度に合わせることができるように小窓の夜光塗線に中のゲージを合わせるようになっています。小窓はベークライト製で、内部のゲージは傾斜角度によって動き、45度の位置で停止します。

 筒身を仰角45度に保つのは訓練で習得はできます。しかし、夜間の暗闇下で目視確認ができない場合に45度を保つコツは熟練していないと相当に難しいでしょう。ゲージに夜光塗線が採用されているのがその証です。また、日中であっても火線下ではゲージがあるとないとでは心理的にも違う気がします(焦って平常心じゃない時こそ役立つ)。 

 「試製」の名称ですが、現存する史料では1941年に陸軍兵器本部長宛で三万個の調達が指示されています(→アジア歴史資料センター「Ref:
C04123065200」
)。調達数からも全軍配備といえると思います。1942年には「八九式重擲弾筒用試製照準子説明書」として、現地で改修が可能なように作業手順も含めた取扱説明書も発行されています(この説明書は防衛研究所に所蔵されています)。

 試製照準子の普及率については史料未見のためにわかりません。ただ、米軍が戦地から持ち帰った擲弾筒が不活性処理されてコレクションとして市場に出ており、これまでオンラインで販売されてきたものを見る限りでは、試製照準子が付いているものは半数を下回る割合、およそ3割程度という印象があります。

こちらでご紹介した試製照準子付きの八九式重擲弾筒(初期型)はヤフオクに出品中で。米国で無可動処理がされた里帰り品で、 柄桿外被や砲向照準線のペイントも残る状態が良いものです。

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/355876147

ヤフオク!マイオークション

九二式重機7.7ミリ弾 補給用弾薬箱の作り方

先日に試作した九二式重機7.7ミリ弾を600発収納する木製弾薬箱。週末のイベントに持ち込んだところ、好評いただきました。関心のある方がご自身でお作りになれるように作り方を公開します。

 板厚21ミリの杉無垢材を利用して作る方法です。私はカットサービスのあるホームセンターで購入した板材を下記の指示書でカットしてもらいました(2個分)。幅240mmの板材で、長さ3650mmと1820mmのものを1枚ずつ使用しています。これで側板8枚、天板・底板4枚、麻縄を通す補強板8本の計2箱分が取れます。ご自身で切れる場合は、板取りの内訳としてお使いください。図中の(1)~(11)はカットの順番です。

 4枚の側板は、短い方がオス、長い方がメスの切りかけを組み合わせる形になっています。オスの切り欠けは四辺を落とすだけですが、メスの切り欠けは、鑿を使ってキレイに仕上げるのはコツが入りますので、自信のない方はカットサービスを使うのが無難だと思います。 こちらが切り欠けの指示図です。

  持ち手の縄を通す補強板は、両端角度70度の平行四辺形です。縄を通す部分を一箇所くり抜きます。麻縄はホームセンターの在庫の関係で12ミリのマニラロープを使用しましたが、10ミリロープでも良いと思います。長さは1本あたり1メートルです。

 短い方の側板に標記するステンシルです。私はカッティングマシンでマスキングシートを作製しましたが、この画像を原寸大でプリントアウトして黒い部分を切り抜き、再剥離可能なスプレー糊で貼り付けて上から黒のスプレー塗装でも可能だと思います。

 偽装塗色については、塗色を指示した通牒文書が見つかりませんので、現存する実物画像を参考に、緑と茶をまぜたペンキで刷毛塗りをしています。標記のある面も塗色はあったようですが、標記を見えやすくするために、今回の試作では塗っていません。

 製作にあたっての注意点としては、無垢材は店頭で販売されている段階ですでに反っていることが多いため、組む前に反りを出来るだけ直す必要があること。この場合、反っている裏面に水をつけて、反対側を表にして日光で乾かすと裏側に反って真っ直ぐになります。ただ、完全に真っ直ぐにはならないので、組み立て時は隙間が出来ないように、木ネジ(平頭のマイナス)か、ねじりのある釘を使うのが良いと思います。

南方戦線向け九二式重機関銃用の木製弾薬箱

以前から気になっていた日本軍の重機関銃用弾薬箱を製作しました。九二式重機関銃の7.7ミリ弾を保弾板で留めて紙箱でパッケージした30発を20個、計600発を収納するものです。

 日本軍の重機関銃用弾薬箱でよく見かけるのは、布張りで開閉式のフックの付いた、カーキ色の側面に「甲弾」の標記があるものですが、今回、製作したのは、このように緑色で着色された木箱に麻縄が付けただけ、留め金具もなく、蓋は釘止めという簡素な外観のタイプです。

Twitterでこの弾薬箱は「補給用」で、携行用とは異なるものである旨をご教示いただきました。ご報告申し上げます。


(2019年3月14日追記)

 こちらが現存する実物の画像です。日本では出物を見たことがないのですが、米国のネットショップやオークションでちらほらと確認できます。緑の着色からしても、おそらく太平洋戦争期の南方戦線へ向けて出荷されたタイプでしょう。

緑色の着色は、日本軍の偽装塗色ではなく、中国で戦後に接収された後に共産軍が塗色したものという説があるようです。


(2019年3月14日追記)

 アジア歴史資料センターのデータベースを検索したところ、箱の形状を定めた文書は見つかりませんでしたが、標記については、1944年5月に改正された時の兵器行制本部の文書が残っていました(C13010166100)。ネットで見られる実物画像も、ほぼ同様の標記ですので、これで間違いないでしょう。

 また、弾薬箱へ迷彩着色を施すことに関する文書も存在しており、細かい仕様については不明ですが、迷彩としての緑色の着色は、1944年8月頃まで行われたようです。「兵政補第七八三四号」で「補給用弾薬箱偽装塗色廃止」が通牒されています(C13010167700)。以上から、このタイプの弾薬箱は、いつ頃から出現したのかは不明ですが、1944年の中盤には標記変更と迷彩着色が廃止されていますので、海上輸送が途絶える前に南方戦地へ送られた弾薬箱の多くはこのタイプだったと推察されます。

 今回、製作したものは、現物が手元にないので正確なサイズが分かりませんが、実物画像と、内容物(保弾板留め7.7ミリ弾20発紙箱を横向きに立てて10列2段で収納)からアタリをつけ、板材の都合も考慮した上で、おおよそ横幅47センチ×奥行き22センチ×高さ22センチで製作しました。板厚21ミリの杉無垢材です。迷彩色は、緑をベースに茶色を混ぜたペンキをハケで着色しました。

 この弾薬箱は、このように四面の側板がそれぞれ切り欠きした4枚の板で組み合わさっています。木工で「欠き込み」「かぎ込み」と呼ばれる支持力が強い工法です。実際に製作してみて、耐荷重的に、実物はもう少し板厚が薄い気がしました。板厚は16ミリくらいでも良いかもしれません。

 試作で2箱を製作しました。持ち手のロープは麻製12ミリのマニラロープです。面白いもので、実物は片面に2本、斜めに取り付けられた補強材に通すロープ位置が上下で互い違いになっています。これも実物同様に再現しました。


 なぜ互い違いにしたのか、ちょっと分かりませんが、完成後に両手で持ってみる分には、特に違和感はありません。私感ですが、ユージンスレッジ『ペリュリュー沖縄戦記』で日本兵が背負う弾薬箱は、このタイプで、2本の麻縄を両肩に通して背負った気がしています。だとすると、麻縄はもう少し長かったかもしれません。

 側面の標記は、ステンシル文字になっています。この文字がクセモノで、最も近い明朝体のフォントで旧体字をいったんピクセル画像化した上で、一文字毎に加工修正、最後にイラストレーターで読み込んでアウトライン化したデータをカッティングマシンに送信してマスキングシートをカットします。最後にマスキングシートを貼ってスプレー塗装です。

 実物と比べると、若干、文字のラインが細いですが、雰囲気は出ていると思います。工場出荷年月と番号は書き入れていませんが、筆で手書きすると良いかもしれません。標記は1面だけか2面に同じ標記があったのか不明なため、また、急ぎでもあったので、片面のみです。

 出来上がりの精度としては、65%くらいという印象です。今週末のイベントに間に合わせるために、約1週間という突貫作業だったため、無垢材の反りを十分に修正できずに若干の隙間が出ていること、初めての鑿を使って切り欠けにトライしたこともあって、切り欠け部分の精度がイマイチでした。釘も打ち直しをしたので釘抜の痕も残っています。仮に次回リベンジするならば、切り欠けについては、はめ込みのメス側はホームセンターのカットサービスに依頼しようと思っています。

ユージン・スレッジ著『ペリリュー・沖縄戦記』。著者のスレッジは、ペリリュー攻略戦中に木製弾薬箱を担いで逃げる日本兵の姿を目撃し、その様子を記しています。補給が途絶えた孤島で玉砕を前に戦った日本兵の悲惨な姿です。

「The Pacific」の原作にもなった書です。ドラマでは登場人物(特に親友)がだいぶデフォルメされていることがわかります。また、ドラマのなかでの兵士たちの所作の理由がよくわかるので、まだお読みでない方はご一読をオススメします。