おもちゃメーカーがつくった模擬爆薬

生産期間はわずか一カ月。これまでの通説と異なり、四桁は生産されたと思われます。棒状地雷と三式地雷は、セット以外にもかなりの量がつくられたようです。

 1945年7月といえば、沖縄で戦闘終了が宣言された時期です。いよいよ日本本土への上陸作戦に向けて米軍にも覚悟が求められていたわけです。日本軍の爆薬類を模した訓練教材の使用法を示す教範「TB ENG 79:USE OF JAPANESE MINE TRAINING AID SET NO.2」は、まさにその時期にリリースされました。

 同教範に示されているように、米軍が日本上陸後の戦闘で懸念したのが地雷や爆薬による待ち伏せ戦法です。地雷の敷設だけでなく、手榴弾や爆薬をつかったブービートラップへの対処も必要です。模擬爆薬訓練器材「JAPANESE MINE TRAINING AID SET NO.2」は、日本上陸作戦で直面する課題解決に向けて、第一線で地雷除去を担当する工兵の教材として整備されたものです。

 ところで、近年、米軍側の視点から日本軍の戦法(主としてブービートラップ)をとらえた“卑怯な日本軍”というフレーズで、日米比較をまとめた教養書があります。実は、日本軍は米軍と異なり、対人地雷を制式兵器として装備していませんでした。確認できる最も早い制式兵器は、1942年に対戦車地雷を「人用地雷」として転用したものです。

 日本軍の野戦築城教範では、地雷を「人馬ヲ殺傷シ材料ヲ破壊スル為設クルモノ」と定めています。にもかかわらず制式兵器として対人地雷の採用が遅かった理由はわかりません。ただ、制式兵器がなかったことは、既存の対戦車地雷を対人用に転用したり、爆薬をつかったブービートラップ戦法を採用せざるを得なかった理由でもあります。“卑怯”というキーワードは、強い先入観を与え、正確な史実への理解を妨げてしまう恐れがあるのではないでしょうか?

 米軍の模擬爆薬訓練器材に話をもどしましょう。

 この訓練器材は木箱に日本軍の地雷や爆薬の模型をセットにしたものです。九三式地雷、九九式破甲爆雷、三式地雷、棒状地雷、九七式手投榴弾の五種類が模型として再現されています。いずれも炸薬を除き、実物と同様の形状と素材でつくられています。

 九三式地雷のダミーです。底面に砂を入れる栓が追加されている以外は、外観は実物とかわりません。踏圧作動式の信管部は、日本軍の取扱法と同様の手順で起爆準備(逆に解除)までできる仕組みになっています。

 破甲爆雷は、戦車の装甲板を破壊する目的で採用されたもので、弾体となる布製の収容嚢の四方には投擲して戦車の鉄板に密着するための磁石を入れる箱がついています。模擬爆薬訓練器材のダミーは、この箱に磁石のN極/S極と製造メーカーである三菱のマークを入れるほど精緻な再現がなされています。また、破甲爆雷と棒状地雷は、内部の炸薬(ブロック状のTNT等)もダミーとして再現されています。

 ただし、すべての機構を再現したものではありません。信管部の動作は実物と同様のギミックが再現されていますが、構造そのものはそれなりに省略されています。この写真は、筆者が所有する九七式手投榴弾の実物不活性品(手前)と模擬爆薬訓練器材のダミー(奥)とを比較したものです。ダミーには、信管の外観は再現されていますが、起爆に必要な撃針はありません。また、起爆管(デトネータ)は分解を考慮しない一体成形となっています。

 三式地雷のダミーです。陶器製の本体と信管を螺着するゴム栓は実物と同様ですが、信管については踏栓と安全栓を解除したときのギミック――バネで踏栓が撃針を叩く――は再現されているものの、肝心の撃針そのものはありません。

 戦地における危険物の除去という工兵の職責からすると、高度な知識と技倆を有する信管部の不活性化処理(分解による起爆筒の処理)までは不要で、外観と作動の仕組みを理解できればよいわけです。ダミー特有の構造とすることで容易に作動を繰り返して教習をおこなうことができ、部品点数を減らすことで生産性も確保できたと思われます。このような構造上の工夫は、後述するように生産を請け負った企業の得意とするところであったと思われます。

 教範「TB ENG 79」には、模擬爆薬訓練器材の配布先と数が示されています。そこには、フォート・ベルボア、キャンプ・クレイボーン、フォート・レナード・ウッドに各100セット、フォート・ルイスに150セットといった具合に、合計529セットが配布されることとされています。

 この記載は、これまでコレクターの間で、模擬爆薬訓練器材の生産数として認識されてきました。数が少なく、貴重という意味です。しかし、実際にはもっと多かったように思います。

 模擬爆薬訓練器材の製造を担当したのは、当時、コネチカット州にあったA.C. Gilbert Companyです。このパンフレットにあるように、同社は児童向け教育玩具の製造メーカーでした。同分野では最大手だったようです。

 同社は戦時生産で、主に地雷や爆薬の信管生産を請け負っていました。ウェスタン・コネチカット州立大学が所蔵する史料に、模擬爆薬訓練器材の製造にかんする経緯が残っています。それによると、模擬爆薬訓練器材は、1945年2月に米国防省工兵総監部の技術者が日本軍の手榴弾と地雷を同社に持ち込み模造を依頼したところから始まります。同社では最初に4セットを試験生産したのち、1945年6月には工兵総監部から1万6000セットの契約発注がなされています。

 総力戦体制において、米本土の各製造現場では工員の確保が困難で生産の進捗に影響を与えていました。同社も同様でしたが、模擬爆薬訓練器材は来るべき対日戦で兵士の損耗を防ぐために重要な教材です。それゆえに、工兵総監自らが同社へ私信による要請をしています。要請の内容は、6月末までに2000セット、7月末までに6000セットの模擬爆薬訓練器材を納入するようにというものです。

 この記録からわかるのは、模擬爆薬訓練器材は6月下旬から日本の降伏が決定的になった8月初旬までのわずか一カ月ほどの間に製造されたことです。実際にどれくらいの数が生産されたかはわかりません。しかし、従来、通説とされていた「TB ENG 79」に示されている529セットよりは多く、数千セットの生産はなされたのではないかと思います。

 なお、模擬爆薬訓練器材のセットとは別に、ダミー地雷は個別の生産もなされています。これは、模擬爆薬訓練器材のセットよりも早い段階で契約がなされています。目的は、地雷処理の工数を策定するために演習で使用するためです。

 同社の文書によると、棒状地雷については1945年3月に5000個の発注契約がなされ、6月下旬までの間に2014個がすでに生産済みとなっています。また三式地雷(信管)は6月に4000個の発注契約がなされ、同月下旬までに2000個が生産済みとなっています。三式地雷は信管部をA.C. Gilbert社が生産し、陶器製の地雷本体は別の企業が生産したものと思われます。

 これら棒状地雷と三式地雷は、6月下旬に模擬爆薬訓練器材が発注された時点で、すでに相当数の生産がされていたことになります。コレクター市場では棒状地雷や三式地雷が単品で出ることがあります。それらは模擬爆薬訓練器材がバラになったものというよりも、別途生産され、単品で軍に納入されていたものである可能性が高そうです。

 最後に、米軍の模擬爆薬訓練器材に「NO.1」はあったのか?という疑問があると思います。先ほどの工兵総監部から同社への要請文にはモデル名の記載はありません。それに対して同社の文書には、模擬爆薬訓練器材のセットが完成したときに「Mine Training Aid Set No. 2, Japanese」と呼ぶことにしたとの記載があります。時期的にはドイツ降伏の直前にあたります。そして「Japanese」が名称の最後にきています。もともと「No.1」は、ドイツ軍向けに準備がされていたのではないでしょうか?

 筆者が入手した「JAPANESE MINE TRAINING AID SET NO. 2」に入っていたものです。ドイツ軍の兵器に詳しい方ならばおわかりになると思います。対戦車地雷「T.Mi.42」の信管を模したものです。幻の「GERMAN MINE TRAINING AID SET NO. 1」に含まれる試作品かもしれません。

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