アメリカ人にとって“Concentration camps”が国内に存在したことはショックだったでしょう。
2018年に息子と一緒にカリフォルニアのジョン・ミューア・トレイル(JMT)にチャレンジしたとき、第二次世界大戦で日系アメリカ人が強制収容されたマンザナー(Manzanar)を訪問しました。
JMTのトレッキングルートは、ヨセミテから米本土第一の高峰であるホイットニー山(Mt. Whitney)まで、おそよ211マイル(約340km)の距離があります。このロングトレイルを、およそ4週間かけて歩くわけですが、ゴールのホイットニー山からほど遠くない場所にマンザナーがあります。
マンザナーへの訪問は当初から予定していたわけではありません。JMTはロングトレイルなので、いちおうの行程は立てていますが、息子は当時はまだ小学5年生でわずか10歳。彼の健康状態によっては途中でリタイアもあり得ます。事前に予定をしっかり組めるわけではありません。
さいわいにも、大きな怪我も身体の不調もなくトレッキングを続けることができました。終盤にさしかかり、ホイットニー山から下山後に宿泊する町を地図で確認していたとき、マンザナーの存在に気付きました。マンザナーは、ホイットニー山の下山口から一番近い町であるローンパインから北へわずか約10キロの地点にあります。そこで、ホイットニー山を下山した後はローンパインに宿泊し、マンザナーを訪問することに決めたわけです。
朝3時に麓を出発して午前中に標高4418mのホイットニー山を登頂。富士山も未経験だった息子にとっては高度障害の発症がリスクでしたが、元気に登頂することができました。そのまま下山口まで、その日はたしか10時間、およそ30km近い行程を歩いたと記憶しています。トレッキングの初日は6kmしか歩けなかったのが、食料が減って荷物が軽くなっていたとはいえ、最高峰に登頂後、さらに歩いて、初日の5倍近い距離を歩いたわけですから、人間の身体は不思議なものです。
下山口でヒッチハイクをして、同乗させてもらった男性にオススメの宿を聞きました。ローンパインでいちばん有名だというモーテルに連れていってもらいました。
1950年代にオープンしたDow Villa Motelです。西部劇のロケでジョン・ウェインなどの名だたるハリウッドの俳優たちが宿泊に利用したそうです。館内にはロケの写真や俳優たちゆかりの品が展示されています。西海岸の物価からすると田舎町ゆえ宿泊費はリーズナブルですが、雰囲気のよい宿です。
幸いにも空き室があり、その日はひさしぶりに町内のレストランでちゃんとした食事と、ホテルのベッドでゆっくりと睡眠をとることができました。翌日にマンザナーを訪問しました。
マンザナーは、1942年から米本土に建設された10ヶ所の日系アメリカ人収容所のうち、最初に建設された収容所です。西海岸に住む日系アメリカ人を中心に、収容者数はおよそ1万人に上りました。
戦争が終結した1945年に閉鎖された後、30年近く放置されていましたが、1972年にカリフォルニア州が史跡と位置づけてから整備がおこなわれ、現在は国立史跡となっています。
当時のマンザナー収容所は、814エーカー(約3.3平方キロメートル)、日本式に表現すると、“東京ドーム70個分”という広大な敷地で、現在もほぼ当時にちかい広さで史跡の保全がされていると思います。敷地内の一部には、ビジターセンターを兼ねた博物館と、当時の建物や歩哨塔、鉄条網などが再現されています。建物(バラック)は基礎部分にあわせて、忠実に再現しているようです。
敷地内に再現された数棟のバラックでは、当時の収容生活が再現されており、内部を見学することができます。
共同食堂を再現したバラックです。当時、収容者たちが正月についた餅の臼と杵が展示されていました。
マンザナーは、カリフォルニア州とネバダ州の境に近い、乾燥地帯に位置します。もともと開拓地で、小さな集落がありましたが、1920年代後半に水利建設の余波で集落が放棄されてからは無人の地だったため、収容所の立地として好都合だったようです。気候はかなり厳しく、夏は酷暑、冬は冷涼で、強風による砂塵が吹き荒れるという環境です。当時の収容経験者は、一様に自然の厳しさが身に染みたようです。再現されたバラックの内装は粗末で、寒気を凌ぐには厳しかったことがうかがえます。
ところで、訪問した当時は、“Concentration camp”(強制収容所)という呼び方だったと思います。これは史跡としての正式な名称ではなく、通称として参観者や現地の人たちはこのように呼んでいました。ところが、今回、記事を書くうえで調べたところ、日系アメリカ人の収容所については、“Internment camp”(抑留施設?)という呼び方になっているようです。これはどういうことなのでしょうか?
ブリタニカの用語定義では、“Concentration camp”は“Internment camp”と同義としており、民族差別や政治意図で不法に無実の人々を強制的に収容する施設という解釈です。日本語の強制収容所の定義と同様といってよいと思います。一方で、Wikipedia(英語版)は、“Concentration camp”を“Internment”にリダイレクト処理しています。これは、“Concentration camp”にはナチス時代の強制収容所が含まれるが、処刑設備を整えた“Extermination camp”(絶滅収容所)とは厳密に区別すべきという議論を踏まえてのことのようです。ようは、従来の呼称である“Concentration camp”は広汎に過ぎて正確な史実を伝えるのに不適切だから、強制収容所をいう場合は“Internment”の用語をつかうべき、という主張のようです。
ただ、世間の認識としては、ナチス時代の絶滅収容所も含めて、いまだに“Concentration camp”という表現が一般的だと思います。実際に、筆者が当時、現地で耳にした日系アメリカ人収容所に対する“Concentration camp”という表現は、ナチスの強制収容所と同等にならぶ罪悪であり悲劇である、というニュアンスでした。だからこそ、マンザナーを訪問していた参観者や現地の人たちは、一様に、自国本土に“Concentration camp”が存在した事実をショックなことと受けとめていたわけです。それが史実として正確か否かは別として、それが“Concentration camp”という言葉が持つ重さなわけです。
筆者は英語が得意ではないので、正確な語彙の意味するところとその区別はわかりません。あくまでも憶測にすぎませんが、“Concentration camp”と“Internment camp”は、語義やニュアンスとして区別されつつあるように思います。それは、昨今、急速にクローズアップされている中国におけるウイグル人収容施設といった世情が参考になりそうです。
というのも、欧米のメディアでは、中国政府が呼ぶ“Re-Education Camp”(再教育施設、かつての労働改造所と同じ)を主として“Internment camp“と表現しています。しかし、民族浄化を狙っているという主旨の記事では“Concentration camp”という表現をつかっている例があります。“Concentration camp”という表現は、単なる人権侵害を超えて、民族浄化を目的とした深刻な人道危機を含意するものという認識になりつつあるのかもしれません。
史実は正確な伝承が求められますが、一方で多くの場合は、世間に流布される過程で、いろいろな部分が捨象されます。史実は常に玉虫色で、伝えにくいからです。いちど定着した名称から受けるイメージは、多かれ少なかれ、本来意図した含意や史実とは離れてしまうものです。強制収容所の用語をめぐる動きは、そのことをあらわしていると思います。
マンザナー収容所の様子を写真に残したアンセル・アダムス(Ansel Adams, 1902-1984)のモノクロ写真を、AIによる深層学習の技術をつかい、彩色で再現した写真集『強制収容所の日系アメリカ人』です。Amazonの電子書籍版(Kindle)でリリースされています。