もうずいぶん昔のことですが…台湾国軍歴史文物館レポ #1

年賀状つくるのすっかり忘れていたなぁ。さて、使えそうな家族写真はあるかいな…と写真を整理しておりましたら、ずいぶん前に台湾で国軍歴史文物館を訪れたときに撮影した画像が出てきました。当時はあまり気に留めていませんでしたが、ちょっと珍しい小火器も写っているので、せっかくですから(年賀状は後回しにしまして)ご紹介したいと思います。

 訪れたのはもう10年近く前になります。当時は一番上の子が生まれて、たしか1歳になる前にベビーカーを押しながら台北市内をウロウロしたのですが、さすがにここには私一人で行ったように記憶しています。グーグルストリートビューで見ると建物外観は当時と同じようですね。

 いきなり銃火器の写真ですが…“チェコ機銃”ことZB26。英軍のブレン、日本軍の96式に影響を与えた傑作品ですね。

 こちらは立派な収納ケースに入っています。写真がだいぶブレていますが、たしか館内はフラッシュ禁止だったので…。で、今思うと、むしろその上に写っている、おかしな形の短機関銃の方が気になります。“中共50式”となっていますが、なんだかドイツのMP40とソ連のPPSh-41を足して2で割ったような…。台湾の方によれば、北ベトナム製“K-50M”が正しいそうです。

 中国で現地生産されたモーゼル自動拳銃。木製銃床と革製のストックホルダーがセットになっています。7.63ミリ弾の威力と肩打ちで正確な射撃ができますので、運用思想としては自動式カービン銃を先んじたものと見て良いかと思います。いかにも匪賊が好みそうな銃ですが、大陸で憲兵内偵をされていた方の回想で、危ないときは取り出しやすい小型拳銃を2-3発撃って怯ませた隙に、モーゼル銃で反撃して危急を脱する、という話もありました。

 こちらは本当のカービン銃。ドイツのGew88(もしくは騎兵銃のKew88)の中国バージョンと言いましょうか、本家とはちょっと違った形のようですが、“徳造=ドイツ製造”とありますので、ライセンス生産ではなく、輸入品のようです。

 3種類とも米国製の自動小銃です。一番上はM14、その下の真ん中はちょっと珍しいジョンソンM1941自動小銃。一番下はM1カービンの空挺部隊向け折りたたみ銃床がついたモデルですね。#2に続きます。

Cal.30“M2”AMMUNITION BOX

謎の“M2”アーモボックス。木製クレート作成のために、同じ色の大戦型アーモボックスを入手しようと、ヨーロッパの業者から購入、5個セットで届いたものです。

 いろいろと調べましたが、正直、よく分かりません(ごめんなさい)。海外のフォーラムでは同盟国への供与品という見方が有力なようですが、側面には米国兵器局を示すロゴマーク(いわゆる“flaming bomb”と呼ばれるマーク)と“U.S”の刻印がありますので、ほんまかいな?という気もします。ともあれ、手元にあるM1アーモボックスと比較する形で、M2アーモボックスの形状を見ていきましょう。

 M1と並べて見ます。一番左が“REEVES”社製、次の3つが“CANCO”社製。そして一番右がM2です。社名は“SEC”というM1では見かけない社名です。現用品では、“SCE”社というメーカーがあるようですが…。なお、写真を見ると、サイズが少し大きめに見えますが、メジャーで実測してみると、M1とサイズは全く同じです。

 銃架への取り付け金具がある反対側です。並び順は同じです。真ん中2つの“CANCO”社製の金具が欠品しているので分かりづらいかもしれませんが、M1とM2で大きな差異はありません。また、この金具形状からも、右端のM2がM1A1型ではないことが分かると思います。

 上から見た様子です。並び順は同じです。持ち手の形状にも大きな差異はありません。M1アーモボックスには、上蓋が外せるものと外せないものがありますが、M2は外せないタイプです。

 M2の底面には弾薬の向きを示した刻印があります。M1と同じです。 上蓋内側の防水用ゴム(または発泡ウレタン)は、リペイント時に樹脂で補修されており、残念ながら元になにが付いていたかはわかりません。

 写真の左がM1“REEVES”社製、右がM2です。よ~く見比べてみると、M2の金具の形状などは、この“REEVES”社製が最も近いようです。

ただ、M1“REEVES”社製と比較して違うところはあります。このように近くで見比べてみると、缶のつなぎ目の部分に、“REEVES”社製には補強材?があるのに対してM2にはないこと、また、缶自体の形状も微妙に異なるので、おそらく金型もしくはプレス機が違うであろうことが分かります。私の目が節穴で、まだまだ見逃した部分があるかもしれません。

30口径機関銃弾用の木製クレート製作 #2

30口径機関銃弾用の木製クレート。試作品を製作しましたのでご報告します。

 トップの画像が今回の試作品です。まだ改善の余地はありますが、やはり、金属と合わせると、見た目が引き締まる気がします。

スタンプは、実物を参考に、上蓋・前後の板の3カ所に、若干のアレンジを加えて再現しています。

 海外の業者さんは、スタンプをステンシルで再現されていますが、やはり切り欠けのあるステンシル文字ではなく、スタンプ文字での再現にこだわりたいところです。

 試作品はスタンプが薄いので、もう少ししっかりと印字する必要がありますが、これぐらいのかすれた感じも雰囲気はあります。スタンプの内容は、セントルイス造兵廠から出荷されたロットナンバー「B502913」、内容物「AP4 TR1」(徹甲弾4・曳光弾1)です。

 このように250発入りのM1型アーモボックス4つが格納できます。せっかく木製クレートを製作しても中に入れるアーモボックスが色違いでは興ざめしてしまいます。そこで、海外の業者からリペイント品をまとめて購入しました。写真にあるようにアーモボックスの色が統一されたのは良いのですが、驚きの事実が判明しました。それについては後日、ご報告したいと思います。

 構造は実物同様に単純で、木枠のついた4つの木板を金具留めした4本の針金で連結し、最後に側板をはめる形です(写真の試作品には側板は写っていません)。この試作品のサイズは横幅が少し小さめになってしまい、アーモボックスを4つ入れると側板がはまりません。そこで、あと15ミリ拡大する必要がありますが、15ミリ拡大したサイズで容積を計算すると、実物に記載のサイズとほぼ同じになりました。

 木板は5.5ミリ厚の合板です。本当は無垢材を使いたいところですが、現在では薄い厚さの無垢材の扱いが店頭ではほとんどありませんので、この点は妥協するしかありません。

 また、針金を留める金具は、当初、又釘を使いましたが、釘の足が長いのと打ち込みがうまくいかず(不器用なもので…)、ステープルに変更しました。ステープルは市販品ですとほとんどが角型で、海外でレプリカを製作・販売している業者さんも角形を使っていますが、よく探してみたところ、実物に近いU字型のステープルを手に入れることが出来ました。このU字型のステープルを4本の針金に対して1周20個ずつ、1クレートに対して計80個を斜めに打ち込みます。

 当時の木製弾薬箱と同じように、機関銃弾薬用の木製クレートにも、茶色に着色したバージョンがあります。こちらも試作品を製作中ですので、完成次第、ご報告したいと思います。


慟哭のキャタピラ…獅子神社参拝

今週、仕事の関係で静岡県を訪れる機会があり、富士宮にある若獅子神社にお参りに行ってまいりました。雲ひとつない秋晴れのなか、静かに参拝させていただきました。

 若獅子神社は、皆さんご存知の通り、戦前の陸軍少年戦車兵学校跡地に建立された神社です。大戦中に戦没された少年戦車兵と同校教職員の皆さんを祭神として合祀しています。

 若獅子神社の正面です。鳥居の向こう側に見える白塔は、神社建立前に有志によって、戦没者の御霊を慰め、悼むために建てられた「若獅子の塔」です。

 こちらは祭神のお名前が記された石碑です。冒頭に刻印された岡田資将軍は、短い間でしたが陸軍戦車学校の校長を務められました。終戦時は東海軍司令官として中部地方の防衛に尽力され、映画『明日への遺言』でも知られるように、その職責ゆえに戦後の戦犯裁判で刑死されました。

 神社の入口には、当時の門柱が両脇に残されています。この門柱を出た卒業生六百余名が戦争で亡くなっているそうです。現在の神社がある場所は、旧少年戦車兵学校の敷地約30万坪という広大な土地のなかのほんの一部です。正門は別の場所でしたので、門柱はおそらく移設したのでしょう。「陸軍少年戦車兵学校」の銅板は、戦後に再現されたものらしいです。

 若獅子神社に奉納されている陸軍の主力戦車九七式中戦車(チハ車)。激戦地であるサイパン島から帰還した戦車第九連隊所属の車両です。この車両は、元戦車兵でサイパン島の玉砕を生きのびて復員された下田四郎氏が、戦後に資財を投げうって尽力し、サイパン島から帰還させた2両のうちの1両です。もう1両は、東京九段の靖国神社に奉納され、遊就館で展示されています。

 下田氏の著書『サイパン戦車戦』(旧版のタイトルは『慟哭のキャタピラ』)には、当時の戦車第九連隊壊滅時の様子が克明に記されています。いまなお弾痕が生々しいこの戦車を目の前にすると、胸が締めつけられるような思いを感じます。

 国内に現存するチハ車は、下田氏が帰還させた2両と、近年に千葉県で発掘され、栃木の那須にある私設博物館に収蔵された残骸をあわせた3両のみだと思われます。

 若獅子神社のチハは、帰還後、二度にわたる補修と屋根の整備が浄財によってまかなわれていますが、長年の風雨によって、転輪部などは朽ちてボロボロになっています。しかし、私はこれで良いと思います。下田氏は著書のなかで“戦車兵にとって戦車は棺桶”ということを述べられています。実際にサイパンの浜辺に埋没処理されたチハを掘り出した際に、車内にあった白砂を持ち帰って、遺骨がわりに遺族の皆さんにお配りしたということです。このように朽ちて落ちた錆の破片もきれいに台座の上に安置されているのは、そのような経緯があってのことなのでしょう。

私財を投げ売ってサイパンから戦車を持ち帰った下田氏の活動を紹介した書です。関心のある方は『サイパン戦車戦』と合わせてお読みください。

若獅子神社に祭神として祀られている岡田資将軍の戦犯裁判を描いた映画です。Amazon プライムビデオでご覧いただけます。

30口径機関銃弾用の木製クレート製作 #1

WWII米軍の戦地における30口径機関銃向け弾薬支給の様子を再現したいと思います。

 トップの画像はバーリンデン社が販売している1/35模型のイラスト図です。第二次大戦時に米軍が採用した木製弾薬箱が描かれています(番号は私が振りました)。

 このうち、30口径機関銃向けの弾薬箱は、②と⑤になります。イラストで⑤は50口径用となっていますが、30口径のライフル向け・機関銃向けも同型の木箱です。この木箱は第一次大戦から採用されているタイプで、第二次大戦でも使用されました。木箱の内部は金属製の仕切り板で密封される二重構造ですが、30口径機関銃向けについては、携行式の金属製アーモボックスが採用されるに従い、早い段階で②へと移行したようです。

 30口径機関銃用のアーモボックスです。手前が金属製のM1型で奥が木製のものです。布製のベルトに250発の30-06スプリングフィールド弾を挿し込んだものを収納しました。

 木製のものは水冷式機関銃の時代に採用されたもので、第二次大戦初期も使われましたが、凝ったつくりで大量生産に向かないため、すぐに手前の金属製のものに置き換えられました。この金属製のアーモボックスの採用が②の方式へとつながります。

 ②は通常の木箱のように見えますが、アーモボックス4つを木製の枠材でセットにしたものです。上のイラストは、1960年代の米軍教範に記載されているものです。アーモボックスの形状は変更されましたが、木製クレートの構造そのものは第二次大戦時とほとんど変わっていません。木枠のついた木板を四面を囲むように留め金で固定した針金でくくるという単純な構造です。

 先ほどの⑤の木箱方式は、開梱して取り出した弾薬を携行用に詰め替えるという作業が必要ですが、この方式のように、あらかじめ工場出荷時に金属製のアーモボックスに弾薬を詰めておけば、現地で開梱してすぐにアーモボックスを携行して作戦に出発できます。非常に効率的ゆえに、この方式は戦後も受け継がれ、歩兵用小火器の弾薬が7.62ミリ弾から5.56ミリ弾に変更された現在でも踏襲されています。

 WWII時代を再現するには、実物を参考に製作したいところですが、ほとんど現存していないようです。以前にeBayのオークションで枠材とアーモボックスのセットが出たことがありますが、残念ながら競り負けてしまいました…。

 ただ、上記の教範にあるイラストを見ればお分かりのように、構造はかなり単純ですし、アーモボックスから全体のおおまかなサイズも割り出せます。そして、eBayに出されていた商品の左右前後からの詳細画像がありますので、そこから金具やスタンプを再現することもできます。試作品ができ次第、ご紹介したいと思います。