誰がつけた愛称でしょうか。「空挺用」と名付けたほうが売れそうではあります。
腕時計型の簡易磁石です。補給品目上の制式名称は「Compass, Wrist, Liquid-filled」です。本体はプラスチック製で、名称の通り、内部には油液が充填されています(いました)。もともと液体充填式の方位磁石は、19世紀のアメリカで海洋航海用に開発されたもので、それを簡易な消耗品として大量生産したものが本品になります。本来は皮革製のバンドがつきますが、いま自分の手許にあるものは欠損しています。近いうちにレプリカのバンドを入手して、再現活動でつかえるようにしたいと思います。
インターネットに出回っている82空挺師団の兵士を撮影した写真です。左胸にリストコンパスを吊るしています。誰が名付けたかわかりませんが、このリストコンパスに言及されるときは、ほぼ例外なく「空挺用」(Paratrooper)という名称が付されます。確かにマーケット・ガーデン作戦の頃の編制装備表(T/O&E)[1] には、落下傘降下する兵士の全員に支給される指定がありますが、このリストコンパスは空挺部隊に限って配備されたものではなく、空挺部隊向けに採用されたものでもありません。現場作業に出る陸上職種には区別なく支給されました。1942年~1945年までの総生産数は222万6000個に上ります[2]。
陸軍歩兵小銃小隊の装備品目を定めた1944年2月の編制装備表(T/O&E)をみると、中隊に配備される方位磁石の定数は51個で、うち16個がレンザティックコンパス、35個がリストコンパスです[3]。レンザティックコンパスの支給対象は、士官(6)、歩兵小隊本部(3)、迫撃砲と軽機関銃を運用する火器小隊の班本部(2)と各分隊(5)です。一方のリストコンパスの支給対象は、中隊先任下士官(1)、小銃分隊長(9)、小銃副分隊長(9)、ラッパ手(1)、運転手(2)、伝令(13)です。
左がレンザティックコンパス、右がリストコンパスです。文字盤を見比べてみましょう。レンザティックコンパスの文字盤には、方位角5度刻みにした目盛りと、その外周に円周360度を6400等分したミル(mil)を20刻みにした方位角1.125度単位の目盛りが刻まれています。一方のリストコンパスの文字盤は方位角5度刻みのみです。両者の違いは、レンザティックコンパスが射向付与に必要な方位角の決定につかわれるのに対して、リストコンパスはおおまかに進路の方角を確認するためにあります。
両者の違いがどのように作用するのか、火器小隊の60ミリ迫撃砲にあてはめて数値で示してみましょう。射距離1000ヤード(約914メートル)先の目標に対して射撃をおこなうとき、レンザティックコンパスの目盛り(20ミル=方位角1.125度)であれば、着弾の左右幅は理論上19.6ヤード(約18メートル)に収まります。しかし、リストコンパスの目盛り(方位角5度)だと、その左右幅は87ヤード(約80メートル)にまで拡大します。正確な支援射撃を求められる火器小隊の各分隊にレンザティックコンパスが支給されている理由です(※)。そして、この左右幅は射距離が延びれば延びるほど増大しますから、迫撃砲よりも射距離がある連隊野砲の支援射撃を要請する場合には、誤差の少ないレンザティックコンパスによる方位角の確認と伝達が不可欠です。士官と歩兵小隊本部にレンザティックコンパスが支給されている理由でもあります。
(※)実際にコンパスの方位角を読み取る場合は、止まった針先から刻み幅の1/3程度までなら目星をつけることが可能だと考えます。
筆者はリストコンパスが「空挺用」と称されていたことと、火器小隊の再現でレンザティックコンパスのみに注目していたことから、長らくリストコンパスには盲目でした。歩兵小銃兵の装備品目の再現のために編制装備表を確認して、初めてリストコンパスが分隊長・副分隊長の装備品であることを認識したわけです。勉強不足であったことを恥じるとともに、誰がつけたかわからない「空挺用」の名称を真に受けて、再現品目から除外してしまった先入観は怖いなと感じた次第です。
Reference
[1] Table of Organization and Equipment No.7-37 Infantry Rifle Company, Parachute. 1 August 1944.
[2] Office of the Chief of Military History Department of the Army. The United States Army in World War II STATISTICS Civilian Personnel. 1956, p.27.
[3] Table of Organization and Equipment No.7-17 Infantry Rifle Company. 26 February 1944.